2.松岳山古墳群

2016年10月25日 (文化財課)

 松岳山古墳群(まつおかやまこふんぐん)は、柏原市国分市場1丁目、大和川左岸の丘陵上に営まれた古墳時代前期の古墳群です。柏原市最大の前方後円墳・松岳山古墳を中心に、9基以上の古墳から成っています。

 大きくは西から東へと古墳が造営され、松岳山古墳以外は直径10~20mの小規模な円墳・方墳だったようです。かつては墳丘まで確認できたようですが、 十分な調査もされないまま、松岳山古墳・茶臼塚古墳以外は昭和30年前後の宅地造成により消滅、過去の出土品も多くが散逸し、実態は明らかにされていません。

上空から松岳山古墳
上空から見た松岳山古墳群(中央の森、北から)

松岳山古墳群の位置
松岳山古墳群の位置(赤は現存、黄は消滅)

それぞれの古墳<古墳群一覧表>

松岳山古墳

 松岳山古墳は松岳山古墳群の中心となる古墳です。墳丘長130mの前方後円墳で、美山(みやま)古墳とも呼ばれます。墳丘の構造や後円部墳頂にある石棺、その前後に立つ立石、楕円筒の埴輪など、特異な古墳である松岳山古墳は、1kmほど西にある玉手山古墳群とともに、古くからたいへん注目を集めてきました。詳しくはこちら

向井山茶臼塚古墳

 松岳山古墳の西に、直径が20m余りの円墳とされる古墳がありました。竪穴式石室の存在が推定され、埴輪も出土したようですが、詳細は不明です。
 出土した銅鏡3面から、松岳山古墳よりも古くなると考えられます。銅鏡はいずれも重要文化財に指定され、所蔵は国分神社、現在は大阪市立美術館に寄託されています。詳しくはこちら

市場茶臼塚古墳

 向井山茶臼塚古墳より西にあったとされ、直径10メートル前後の円墳だったようです。この古墳は、出土品も埋葬施設の形態もまったく不明のままに、宅地造成によって向井山茶臼塚古墳とともに破壊されてしまいました。

茶臼塚古墳

 茶臼塚古墳は、松岳山古墳の西側に接するように築かれた長方形墳です。埋葬施設は竪穴式石室で、豊富な副葬品が出土しています。詳しくはこちら

ヌク谷北塚古墳

 松岳山古墳の東はヌク谷と呼ばれ、北塚・南塚など5基以上の古墳があったようです。中でも最も西にあったのがヌク谷北塚古墳です。詳しくはこちら

ヌク谷南塚古墳

 ヌク谷北塚古墳のすぐ南にある直径11mの円墳です。西は松岳山古墳に接しています。墳丘は自然石で葺かれ、赤色顔料が付着した板石が多数出土し、竪穴式石室が存在したようです。円筒埴輪の破片も多数認められ、墳丘に樹立されていたと思われます。詳しくはこちら

ヌク谷東ノ大塚古墳

 ヌク谷東ノ大塚古墳は、北塚古墳・南塚古墳のすぐ東にある直径約30mの円墳だったようです。1961年の宅地造成により破壊されました。出土品の歯車形碧玉製品は藤田美術館が所蔵し、重要文化財に指定されています。他に類例をみない碧玉製品です。詳しくはこちら

税所篤(さいしょあつし)と松岳山古墳群

 明治2年(1869)から14年(1881)の間、柏原は大阪府ではなく、堺県に属していました。その県令税所篤は、無類の好古家で管内の遺跡を各所で発掘し、遺物を収集しています。大山古墳前方部の発掘は有名ですが、税所は松岳山古墳にも触手をのばしています。一時、税所が所有していたという船氏王後墓誌に関心があったため、その出土地とされる古墳の発掘を実施することにしたのでしょう。

 明治10年(1877)10月、税所は沼田滝に命じて松岳山古墳の石棺を発掘、続いてヌク谷南塚古墳、東ノ大塚古墳も発掘しています。その際の出土品については、各古墳の項で紹介しています。出土品のうち刀剣類はもとに戻し、他の出土品は沼田が持ち帰ったといいます。この際の記録が出土品の図面とともに国分村の堅山家に残されているということを梅原末治氏が紹介しています。この記録は所在不明でしたが、平成23年9月に再発見されました。
(安村俊史「続・税所篤と松岳山古墳群-堅山家文書の再発見-」『館報』 第24号 2012)

船氏王後墓誌

 船氏王後首の経歴などを記録した銅製の墓誌です。江戸時代に松岳山古墳周辺から出土したという伝承がありますが、出土地点や、いつ発見されたのかは不明です。
 現在は東京の財団法人三井文庫が所蔵し、国宝に指定されています。詳しくはこちら

松岳山古墳群の変遷と玉手山古墳群

築造順

 中国製の銅鏡3面が出土したという向井山茶臼塚古墳は、三角縁神獣鏡の構成を考えると、松岳山古墳に先行し、古墳時代前期前葉~中葉と考えられます。

  茶臼塚古墳は、円筒埴輪の特徴などをみると松岳山古墳に先行する可能性も考えられるのですが、松岳山古墳の前方部前面に接するように築かれていることから、松岳山古墳よりも遅れて、おそらくほぼ同時に築かれたと考えられます。茶臼塚古墳は中期古墳にみられる陪塚の先駆的な形態と位置づけることができるかもしれません。

 ヌク谷東ノ大塚古墳の年代は決めがたいですが、北塚古墳から出土した倭製の三角縁神獣鏡は新しいタイプのものであり、古墳時代前期後葉に下ると考えられます。

  資料を総合的に考えると、松岳山古墳群は西から東へと順に築造されたと考えられ、盟主墳の松岳山古墳と付属する小古墳という評価はできません。小規模な古墳が西から東へ次々と築造されていくなかで、松岳山古墳のみが突出する規模をもって出現し、その後、また小規模な古墳が築造されたのでしょう。古墳群が造営されたのは、古墳時代前期前葉から後葉(3世紀末~4世紀後半)にかけてと思われます。

比較

 松岳山古墳は前方後円墳で規模が突出するため、玉手山古墳群に含めて位置づける研究もみられます。しかし墳形や規模には違いがあり、やはり玉手山古墳群とは切り離して評価するべきでしょう。

 

  松岳山古墳群 玉手山古墳群
墳形 松岳山古墳のみが前方後円墳
茶臼塚古墳が長方形の墳丘
それ以外は円墳か方墳
ほぼ前方後円墳
西山古墳は円墳
規模 松岳山古墳以外は小規模
(松岳山古墳は墳丘長130m、その他は10~30m)
大規模
(1・3・7号墳が約110m、
その他は50~90m)
板石積み 松岳山古墳・茶臼塚古墳・ヌク谷東ノ大塚古墳でみられる 玉手山1号墳の後円部墳頂以外みられない
埋葬施設

竪穴式石室が中心主体だが、ヌク谷北塚古墳のみが粘土槨

ヌク谷北塚古墳の粘土槨棺床下に礫敷きがあり、古墳群で唯一竪穴式石室の構造が確認されている茶臼塚古墳ではみられない

玉手山4号墳以外、竪穴式石室が中心主体

4号墳以外のすべての竪穴式石室の粘土棺床下に礫敷きがみられる

三角縁神獣鏡 5面以上の中国製・倭製の三角縁神獣鏡が出土、さらにその数は多かったよう 駒ヶ谷宮山古墳の倭製三角縁神獣鏡以外は出土せず
※駒ヶ谷宮山古墳は玉手山古墳群に含めない意見もある
 埴輪 共通要素 松岳山古墳の円筒埴輪の口縁や体部の形態、内外面をタテハケ後にナデで仕上げる技法などは、玉手山1号墳・7号墳に共通している
松岳山古墳では鰭付の楕円筒埴輪が出土
※ただし、松岳山古墳と茶臼塚古墳以外の埴輪について詳細不明
鰭付の埴輪は出土せず
※1号墳の墳裾で楕円筒埴輪による埴輪棺が見つかっている

 これらの状況から考えると、松岳山・玉手山古墳群それぞれの埴輪製作集団は、互いに情報交換や技術交流は行っていたものの、異なる集団であったと考えられます。

  松岳山古墳群の造営は、玉手山古墳群に遅れて開始され、駒ヶ谷周辺の古墳を玉手山古墳群に含めないとすれば、玉手山古墳群の造営終了後もしばらく続けられたと推察されます。最大の松岳山古墳は玉手山7号墳とほぼ同時期で、若干松岳山古墳のほうが先行し、玉手山古墳群で100mクラスの前方後円墳が築造されていた時期に並行するようです。 

松岳山編年表

松岳山古墳群の造営集団

本拠地

 松岳山古墳群を営んだ集団はどのような集団だったのでしょうか。松岳山古墳群の周辺には古墳時代前期の集落はみられず、大規模な水田を営める平野部もないため、彼らはこの古墳群から離れた別の地に本拠地を置き、古墳のみをここに造営したと考えられます。現在のところ、本拠地は特定できていません。

大和川を利用した広い交流

 松岳山古墳のある丘陵が大和川左岸の崖上にあり、各古墳が大和川に臨む尾根筋に並んでいることを考えると、被葬者集団と大和川の関係を考えずにはいられません。

 松岳山古墳の石棺側壁や茶臼塚古墳の石室に、四国産の石材が使用されていることなどから、大和川水運を利用して四国にまで交流をもつような集団だったと推定されます。

 さらに、松岳山・茶臼塚古墳の墳丘の板石積みは、高句麗などを系譜とする可能性があり、松岳山古墳出土の土師器も朝鮮半島に類例があります。遠く朝鮮半島とも交流があったと想定できます。

古墳の石材を管理

 松岳山古墳群の各古墳には、大量の安山岩や玄武岩の板石が使用されています。竪穴式石室だけでなく、墳丘にまで使用された板石の量は膨大です。これらの石材は、東へ500mにある芝山で産出され、前期古墳の竪穴式石室用材として、玉手山古墳群はもちろん、箸墓古墳など大和の主要な古墳、西求女塚古墳(神戸市)の石室石材としても使用されている点が注目されます。

 おそらく、これらの石材は大王家が管理し、誰もが使用できるものではなかったと思われます。松岳山古墳群の被葬者集団は、芝山で産出するこれら石材の管理や産出、運搬などにもあたっていたのではないでしょうか。

松岳山古墳位置図
松岳山古墳群の位置

どのような集団だったか

 松岳山古墳群の各古墳が、松岳山古墳以外、小規模なものばかりでありながら、豊富な副葬品を保有していたのは、広域支配しているような首長ではなく、大王家にとって大和川水運と石材管理などを担う重要な職業集団だったからではないでしょうか。

 そのなかで、松岳山古墳の被葬者は、何か個人的に活躍するような事情があって、130mもの前方後円墳を築けたと思われます。

 松岳山古墳のあと、ヌク谷の各古墳が築造されたと考えられますが、もとの小規模な古墳に戻っています。そして間もなく、古墳の造営は終了します。最後の古墳と考えられるヌク谷北塚古墳の埋葬施設は、より簡素な粘土槨になっています。

 このように評価すると、一部の研究者が指摘するような松岳山古墳群を造営した集団が成長して古市古墳群を造営したという説は成り立ちがたいと思われます。

 特異な墳丘や船氏王後墓誌の出土によって著名な松岳山古墳ですが、出土品の散逸などで、これまで基礎的な研究がおろそかにされてきた面があります。これまでの資料をもとに、いま一度、松岳山古墳を適切に評価できれば、それは一地域の歴史に留まらず、わが国の古墳時代前期を語るうえで重要なものになるでしょう。

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