ヌク谷北塚古墳

2016年10月23日

 松岳山古墳の東はヌク谷と呼ばれ、北塚・南塚など5基以上の古墳があったらしく、中でも最も西にあったのがヌク谷北塚古墳です。この古墳は、1961年、宅地造成中に不時発見されました。それ以前からヌク谷において東ノ大塚古墳と南塚古墳の存在は知られていました。この古墳は単独ではなく、ヌク谷東ノ大塚、もしくは南塚古墳が前方後円墳で、その前方部に築かれた埋葬施設の可能性も指摘されています。

 宅地造成中に粘土槨が露出しているのを、当時大阪大学の北野耕平氏が発見、緊急調査を実施し、この古墳をヌク谷北塚古墳と命名しました。ちなみに、この宅地造成工事によって、東ノ大塚古墳と南塚古墳は完全に破壊されてしまいました。

ヌク谷北位置図
ヌク谷北塚古墳の位置
(出典:大阪大学文学部 『河内における古墳の調査』 1964)

埋葬施設

 発見された埋葬施設は、木棺を粘土でくるんだ粘土槨でした。発見時には建物の基礎工事によって部分的に破壊を受けていました。また、南半は過去にすでに破壊されていたようです。粘土槨の長さは3.8m以上ですが、調査によって確認できたのは、北端1.1m部分のみです。

 粘土槨は、墓坑を掘り込んだうえで全体に礫を敷き詰め、設置されています。粘土棺床はU字形にくぼんでおり、割竹形木棺が安置されていたようです。材質はコウヤマキと判明しています。

 木棺の北側に、2枚の板を組み合わせた仕切り板が、さらにその南30cmにも仕切り板の痕跡が残っており、これらが木棺の北小口板となり、北端の仕切り板との間は、小室として機能しています。石棺と木棺の差はありますが、松岳山古墳の石棺とよく似た構造です。

主な副葬品

ヌク谷北遺物配列図
ヌク谷北塚古墳粘土槨遺物配列実測図
(出典:大阪大学文学部 『河内における古墳の調査』 1964)

いずれも大阪大学考古学研究室の所蔵です。

玉類
 4群に分かれて見つかりました。1群は粘土槨のほぼ中央、南に4群、1群をはさんで東に2群、西に3群があります。

1群…硬玉製の小形勾玉5個、小形碧玉製管玉51個。

2・3群…大形の碧玉製管玉を中心に14個の管玉が集中しています。

4群…非常に小さい硬玉製勾玉1個と小形の碧玉製管玉20個。

石釧
 棺内小口板のすぐ南、2・3群の玉類外側から出土、斜面や垂直面に細かい刻線が入ったもので、5点。破片ばかりで完形のものはありません。

栓形石製品
 2・4群の玉の間で発見、碧玉製で断面台形の円筒状の外形、中央に太い貫通孔が開いています。用途は不明。大きい方の直径は2.75cm、小さい方の直径2.21cm、高さ2.7cm、中央の孔は直径1.15~1.19cm。

3面の鏡
 小口板の北側、仕切り板との間の小室状の空間(北小室内)から3面の銅鏡が、いずれも鏡面を上に、東西方向に並んで出土しました。

 西から出土した二神二獣鏡は、直径16cm、内区周囲に銘帯があり、「明・三・吉・宜」などの文字が鋳出されています。細かく粉砕してしまっています。

 東の2面は倭製の三角縁神獣鏡で、同じ鋳型から作られた同笵鏡です。直径21.2cm、これも内区の周囲に銘帯があります。「吾作明竟甚獨保子宜孫富無訾奇」と左回りに逆さ字で鋳出されています。

鉄刀・鉄斧
 鉄刀は、小片で長さは不明です。刀身部分に木質が残っており、鞘に納めて副葬されていたようです。鉄斧は長さ9cm、刃の幅3.2cmです。

その他鉄製品
 長さ4.1cmの角鑿状(かくのみじょう)鉄器が出土、柄と考えられる木質が残っており、何らかの工具と考えられています。これら鉄製品は、粘土槨設置に先行して置かれ、棺外の礫敷き上から発見されています。

築造時期

 ヌク谷北塚古墳の年代は、三角縁神獣鏡の型式から古墳時代前期でも後半に位置づけられ、松岳山古墳よりも若干遅い4世紀後半とすることができます。

お問い合わせ

文化財課
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