3.付け替え工事

2015年9月4日 (文化財課)

工事に向けて

 元禄(げんろく)16年(1703)10月に付け替えが決定されると、早くも翌年の2月27日に工事が着手されました。石川との合流点付近、現在の柏原市役所あたりから西へ、延長約14km、幅約180mの新しい川を作る工事です。
 工事を始める前に、どれくらいのお金や人が必要かを見積り、堤防をつくるために必要な土の量と、川を掘り下げなければならない土の量がだいたい同じになるように計算し、正確に測量を行いました。海までの高低差約20m、自然では絶対流れない方向に川をつくらねばならず、容易にできるものではありません。工事に無駄のないよう、用意周到に準備されました。

新川筋水盛之覚
新川筋水盛之覚(しんかわすじみずもりのおぼえ)
(市指定文化財・中家文書)
付け替え予定地の高さを測量した結果が記されています。

新川計画川筋比較図
新川計画川筋比較図(しんかわけいかくかわすじひかくず)
(市指定文化財・中家文書)
新大和川の計画ルートが描かれています。

大和川付替摂河絵図
大和川付替摂河絵図
(市指定文化財・中家文書)
付け替え前の河内平野の様子。

摂河両国水脈図
摂河両国水脈図(柏元家文書)
付け替え前の絵図に、新大和川の位置を描きこんだもの。つくられた年代は不明ですが、付け替えからかなり後につくられたと思われます。


地形高下之事
地形高下之事(ちけいこうげのこと)(市指定文化財・中家文書)
付け替え地点から海までの地面の高さを測った測量図。
川違新川普請大積
川違新川普請大積り(かわたがえしんかわふしんおおつもり)(市指定文化財・中家文書)
工事の見積書にあたります。

工事の着工

工事担当

 工事は御手伝普請として幕府より任命された姫路藩が担当し、2月の中頃から計画された川筋に竹を立てたあと、27日には川下にあたる堺の海側から 始められました。最初は、海辺から付け替え地点までの長さ14.3キロメートルを、3年かけて完成する予定だったそうです。ところが、1か月もしないうちに姫路藩主の本多忠国(ほんだただくに)が死去し、引き揚げてしまいました。1.1km進んだ所で、工事は一時中断し、このまま中止になるのではという噂まで立ちました。しかし、すぐに幕府は、今度は川上からの工事を始めることで、そうした噂を断ち切りました。

 その後、姫路藩と同じ規模の助役の任命が難しいことから、和泉国岸和田の岡部美濃守(おかべみののかみ)、摂津国三田の九鬼大和守(くきやまとのかみ)、播磨国明石の松平左兵衛佐 (まつだいらひょうえのすけ)、大和国高取の植村右衛門佐(うえむらうえもんのすけ)、丹波国柏原(かいばら)の織田山城守(おだやましろのかみ)らが担当区域を分けて任命されました。全行程から、姫路藩が行った1.1kmと、上流部の幕府が担当する5.7kmを除いた、7.5kmを3等分して、 2.5kmずつを担当することになりました。

 そして上流の工事を幕府が、下流と西除川や落掘川などの付帯工事を岸和田藩・三田藩・明石藩・高取藩・柏原藩が分担して請け負うことになり、全域で工事が進められました。御手伝いをした藩は、今の大阪府・兵庫県や奈良県と比較的近くにありましたが、工事の直接の恩恵はありませんでした。それでも、工事の監督や指揮だけでなく、費用の一部を負担しなければなりませんでした。

工事担当の図
工事の担当範囲(出典「ジュニア版 甚兵衛と大和川」:中 九兵衛/著)

新しい川のつくり方

工事前地形図
工事前の地形(出典「ジュニア版 甚兵衛と大和川」:中 九兵衛/著)
新大和川をつくるには、南から張り出している丘陵や台地、南から流れてきている何本もの川を横切らねばなりませんでした。

川違新川図
川違新川図(市指定文化財・中家文書)
黄色い豆粒のように見えるのが、集落のあった所。流路は真っ直ぐにとらず、集落をうまくはずしています。

築堤と川底掘

 工事の負担を軽くしようと、ほとんど川底を掘らずに両側に堤防を築く方法で進められました。新川の流れに合う低く平らな土地は、田畑の整地も何もしないで、そのまま川底とし、両側に堤防を築いていきました。東除川が合流する場所までの上流部は、ほぼこの方法がとられました。

 それでも新川筋はそんなに簡単な地形ばかりではなく、かなり掘らなければいけない所もありました。瓜破台地や浅香山などの高い土地がある所は、新川の傾斜に合う深さまで土を掘って、川底をつくる方法がとられました。特に深く掘る必要のある所は、川幅の半分程度にあたる幅を川の真ん中部分のみ川底まで掘り、その両側は半分程度の深さにとどめました。

 このように方法をうまく組み合わせて、水が流れる傾斜をつくっていきました。計画された川底の傾斜は、1町(109メートル)の距離で4寸(12センチ)下がるというものです。

南からの流れと新しい大和川の下流

 新しい川をつくるにあたって、大きな問題のひとつに、南の丘陵地帯から流れてくる多くの水をどうするか、がありました。南からの大きな川として、狭山池から流れてくる東除川と西除川、それに大乗川の3本があり、この処理に知恵をしぼりました。

落堀川(おちぼりがわ)

  新川の左岸堤防で流れが遮られて、堤防の南側一帯がいつも水に浸かっている状態にならないように、うまく排水をしなければなりません。そこで、新しい川筋 に沿って、その箇所より地形の低い細い川をもう一本掘り、一旦、南からの水をそこに落とし、下流(浅香)で新川に流し込むことにしました。それが「落堀川」と呼ばれるものです。落掘川は堤の南側に沿って、延長約10kmも掘られました。
 しかし、すべての水をここに集めるとすぐにあふれてしまいます。そこで、特に大きな西除川・東除川・大乗川は落掘川には落とさず、主に多くの溜め池をつないでいる小さな流れや、雨水などの排水だけに利用することにしました。この落堀川で堀った土は、新大和川の堤防に使いました。

落堀川説明
(出典「ジュニア版 甚兵衛と大和川」:中 九兵衛/著)

 大乗川(だいじょうがわ)

 大乗川は、もとは北へ流れて平野川となっていましたが、新川のずっと南で東へ曲げられ、石川に合流するようにしました。

大乗川

東除川(ひがしよけがわ)

  東除川は、直接新しい川に流し込みました。ここを交差する落堀川は、東除川の下に石の樋を設けて水を通すという難しい工事をしました。ただし、この石の樋は12年後の洪水で壊れ、落堀川も一緒に新川に流れるように改修され、落堀川は、この場所で一旦途切れることになります。

 なお、当初の計画では、掘り下げを少なくするため、瓜破台地の北側に新川を通す予定でした。しかし、実際は南側に変更されています。その理由ははっきりしませんが、川の流れをより直線的にすることで、洪水の危険を減らしたのではないでしょうか。

東除川

西除川(にしよけがわ)と新大和川の下流

 西除川は、新川の手前で流れを大きく西へ振り、依網池(よさみいけ)で落堀川と合流させました、その後は、新川が大きく北西に曲がる浅香付近で、水準を合わせて合流するよう付け替えられました。

  なぜ浅香付近で、大きく曲がっているのでしょうか。それは、ここに地盤の固い上町台地があるためで、少しでも掘り下げる部分を減らす方法が考えられました。その結果、付け替え前からあった依網池(よさみいけ)と、その西を北西に流れていた狭間川(はざまがわ)を新川の流れに利用したのです。

 このように、ひと目見たところ、非常に不自然にみえる曲がりですが、もとの地形や川を上手に利用し、工事が進められました。

西除川

 

工事を終えて

8か月で工事終了

 こうして宝永(ほうえい)元年(1704)(元禄17年は途中で宝永と改元)10月13日に、付け替え地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変え、旧川筋をふさぎ工事は無事完了しました。 はじめは3年がかりかと思われていた当初の予定を大幅に短縮し、8か月足らずの信じられないようなスピード工事でした。

 新大和川の規模は、川幅100間(180m)、堤は右(北)岸が底幅15間(27.3m)、高さ3間(5.4m)、左(南)岸が底幅13間(23.6m)、高さ2.5間(4.5m)となりました。右岸の堤が大きいのは、右岸つまり北側が低くなっている地形のためです。

早く終わった理由

 とても早く工事が終わった理由は、川の底をできるだけ掘らず両側に堤防を築き、掘削を最小限におさえるなど、無駄のない計画を立てたことにあると考えられます。また上流を幕府が、下流などを各藩が分担して工事を行い、競争して早く終わらせようとしたことにもあるようです。工事が早く終わると、費用も安くすみました。

【工事中の謎】
 もとの大和川の水は、新しい川の工事が全部できてからもとの堤防をくずして流したことは、記録にもあります。しかし、工事中も新川の北へと流れていた東除川・西除川、依網池に流れる水をどのように処理して、うまく工事を進めたのか、よく分かっていません。全体の工事完成前に、落堀川や新しく掘った西除川と、それより下流の新川を利用すれば、西除川や依網池などの水を海へ流すことができたかもしれませんが、それでも工事中に流れ込んできた場合や、東除川は一体どうしたのでしょうか。

 

費用・要員

 かかった費用は71,500両。その頃の1両は今の20万円くらいの価値があったと考えられ、現在で考えると約140億円かかったことになります。そのうち37,500両ほどを幕府が負担し、残りを各藩が分担しました。それでも後の新田開発の入札で幕府には37,000両ほどの収入があり、費用は回収されたことになります。

 工事に要した人員は見積もりで244万人。実際には300万人近い人々を要しました。毎日1万人の人が働き、機械もない時代、クワやスキで土を掘り、その土をモッコで運んで、大きな堤防を造っていきました。工事現場に、付近の農民が強制的にかり出されたということはありません。実際に働いた人は、日当をもらい、現場近くの農家に、宿賃を払って泊まり込みました。万年長十郎ら堤奉行は、元の大和川や堤防の修復などで毎年このような人たちを使って工事をしていたので、お互いに慣れていました。これも、工事が早く終われた理由の一つでしょう。

 

堤防の発掘調査

 近年、このようにして造られた大和川の堤を断ち割る発掘調査が、藤井寺市内で2回、大阪市内で1回、八尾市内で2回の計5回行われています。

藤井寺市・大和川左岸堤防

 藤井寺市内の調査では、大和川左岸で、江戸時代の水田の上に粘土質の土を積み上げて堤が築かれていることが確認されました。宝永元年に築かれた堤は、その後も何度も盛土をして補強されているようです。
 堤の裾では、大和川の流れと斜めになるように打ち込まれた杭列が見つかりました。これは、水の勢いを弱めるための施設で、水制(すいせい)と呼ばれるものです。 また、さらに下層から平安時代の建物跡が発見され、住居から水田へ、そして大和川へと移り変わっていく様子がわかります。

 藤井寺市内のもう一か所の調査では、堤防がほとんど砂で築かれていることが確認されています。砂で築かれた堤防は崩れやすく、工事が急いで行われたことを示しています。

大阪市・大和川右岸堤防

 大阪市内では、東除川と交差する付近の右岸で調査が行われています。堤はやはり江戸時代の水田の上に築かれ、0.5m、1m、1.5m前後の厚さに、3回にわたって土が積み上げられています。高さは約3mと復元され、上面もなだらかなかまぼこ状のものだったようです。これは、記録に残る堤よりもかなり規模が小さく、上面も丸くなっています。おそらく風雨にさらされてかなり崩れたためと思われます。

【狭山池にみる昔の堤防構築技術】

 狭山池から流れ出る東除川と西除川は、大和川付け替え以前、平野川に合流する大和川水系として重要な川でした。

 7世紀のはじめに西除川の流れをせき止めて、日本で初めてのダム式溜め池が造られました。これが狭山池です。その堤は底幅27m、高さ5.4m、長さ 300m前後という、それまでには考えることのできないような大規模な堤でした。堤はカシなどの枝を敷きつめて土を盛る敷葉工法(しきばこうほう)と呼ばれる技術で築かれています。
 その後、行基や重源などによる改修が度々繰り返され、現在もその雄大な姿が見られます。また堤にはため池の水を抜くために飛鳥・奈良時代や江戸時代に伏せられた樋が良好な状態で残っていました。土木技術の歴史について、狭山池は私たちに多くのことを語りかけてくれます。

樋を伏せる…湖沼や池、河川の水底や堤の地下に溝を掘って、引水するための管を横に伏せる形で設置しました。

狭山池博物館(博物館ホームページへ)

 狭山池の堤や出土文化財を中心に、人間の最も基本的な営みである水と大地との関係性を追求する土地開発史専門の博物館です。大阪にとどまらず、東アジア的視野で土地開発のあらゆる資料や情報の収集に努め、過去から現代までの土木事業の持つ歴史的意義と内容を後世に伝えます。

 

元の流れの一部を農業用水路に

築留二番樋(つきどめにばんひ)

 旧大和川の幅は100~300mもありましたが、その中心部分を水路として残すことになりました。これが現在の長瀬川や玉串川です。これらの川に水がなければ、田畑に引く水に困ることになります。長瀬川・玉串川の水は築留に伏せられた一番樋・二番樋・三番樋によって、大和川から取水することになりまし た。二番樋・三番樋は現在も使用されており、明治21年(1888)に美しいレンガ積みに改築された二番樋は、国の登録文化財 となっています。

二番樋

青地樋(あおぢひ)

 築留下流にある青地樋は平野川の水源となっています。弓削村の庄屋、西村市郎右衛門が命がけの独断で作ったという物語も伝えられていますが、付け替え前に幕府から認められて、伏せられたことが確認できます。

青地樋

その他

 さらに下流にも多数の樋が伏せられ、これらは関係する村々で結成された組合によって厳しく管理されて、田畑への用水として利用されました。しかし、渇水期には水をめぐって度々もめ事が起きました。上流の樋が水を取りすぎると、下流の樋に水が流れ込まなくなるからです。

  宝暦(ほうれき)10年(1760)に築留と青地の両組合間で争論となり、堺奉行が仲裁したときの絵図が残されています。それをみると、砂関(すなぜき)として砂を詰めた俵を樋の前に並べて取水し、渇水期にはその砂関の前に溝を掘って樋へ水を流していたことがわかります。このように、田畑で必要となる水をどのように確保するかは、当時の人にとって死活問題でした。

築留樋前掘関仕形絵図
築留樋前掘関仕形絵図(柏元家文書)
宝暦10年(1760)の争論御裁許の絵図

角倉與一代官支配組合村絵図
角倉與一代官所支配組合村絵図
(小山家文書)

大和川堤樋絵図
大和川堤・樋・井路絵図
(安尾家文書)

築留青地樋用水組村々絵図
築留・青地樋用水組合村々絵図
(小山家文書)

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