2.付け替え運動
大和川の付け替え運動が始まったのは、万治(まんじ)2年(1659)頃のようですが、甚兵衛がいつから運動に関わっていたのか詳しくわかっていません。甚兵衛が江戸滞在中に幕府の付け替え検分が3回実施されていますが、これにどの程度関わっていたのかも不明です。いずれにしても、貞享(じょうきょう)4年(1687)以降、大和川が付け替えられるまで甚兵衛が運動の中心にあったことは間違いないでしょう。
中甚兵衛の生涯
今米村に生まれ19歳で江戸へ
中甚兵衛は、寛永(かんえい)16年(1639)に河内国河内郡今米村(今の東大阪市今米1丁 目)に生まれました。家は庄屋といって、代々、村を代表する仕事もしていました。明暦(めいれき)2年(1656)18歳で父を亡くし、その翌年江戸に下り、寛文(かんぶん)12年(1672)まで足掛け16年を江戸で過ごしています。一般には、この間に大和川付け替えの嘆願を幕府に繰り返していたとされますが、実際のところは何をしていたのか、史料が残っておらずわかりません。確かなことは、江戸にいる間に200両余りの大金を蓄えて今米村に戻ってきたということです。
今米村に戻った甚兵衛は、母と暮らし、翌年には結婚しています。そのころ、江戸で蓄えた資金をもとに、田地を質にとって銀を貸して稼いでいたということがわかっています。
付け替え運動の中心人物に
それから付け替え運動の中心人物となったものの、運動が思うように進まずとても苦労したようです。付け替え運動が下火になっていった時には、とても焦り、孤立感を深めたのではないでしょうか。しかし、あきらめることなく運動は続けられました。
元禄14年(1701)ごろから再び付け替えが検討されるようになると、甚兵衛は堤奉行に呼び出されるようになりました。そこで様々な経験や知識に基づく付け替え理由が述べられたことと思われます。その時に知識や人柄が気に入られたのか、付け替え工事が始まると普請御用(ふしんごよう)として請われ、工事に参加しました。甚兵衛、66歳のときのことです。この時、甚兵衛は甚助と名を改めています。普請奉行に大久保甚兵衛という名の人物がおり、その下で働くために遠慮したようです。
付け替え工事の時に着用したと伝わる鹿革の陣羽織
表全面には縞模様が、内側には中家の家紋である「九曜紋」、裾には「水」の字が3種の字体で染められています。治水に生涯を捧げた甚兵衛の心意気にふさわしいデザインです。
付け替え後から晩年
付け替え後は新田開発に関わりましたが、すぐに息子や娘婿に開発・経営を任せ、今米村の庄屋も譲っています。大和川の付け替えからちょうど一年たったころ、 甚兵衛は浄土真宗本願寺派大坂津村御坊(北御堂)で剃髪し、法名として乗久(じょうきゅう)を名乗るようになりました。剃髪の理由はわかりませんが、洪水などで命を落とし た多くの人々に思いを寄せていたのではないでしょうか。
そして、享保(きょうほう)15年(1730)9月20日、甚兵衛はこの世を去りました。92歳という当時としては考えられないような大往生でした。寛保(かんぽう)2年(1742)には、今米村とは別に大谷本廟西大谷墓地に墓がつくられました。
つらく苦しい時期も決してあきらめず、農民を洪水から守るために捧げられた人生でした。
中甚兵衛肖像画(市指定文化財・中家文書)
この画は享保10年(1725)、87歳の時のものです。お坊さんになって、坊主頭で法衣を着用、右手に数珠を持ち、左脇には付け替えのご褒美かとも思える刀を差しています。頭から左目近くまで大きな傷跡があります。
|
なかなか付け替えが決まらない
付け替え検分と反対運動
万治3年(1660)、幕府による初めての付け替え検分(実際に立ち会っての検査)が行われています。この時、新しく川になる周辺の村の人々によって付け替えに反対する運動も始まりました。反対運動は新川の検分が実施されるたびに、積極的に展開されました。反対理由は多数あげられていますが、
- 祖先からの土地が失われる
- 新川南側は水はけが悪くなり、洪水がおこる
- 新川北側の水不足
が主な主張でした。新川によって土地を失うことになる人のなかには、食べていけなくなると思い込んで、自ら命を絶つ人も出たといいます。付け替えを望む人々もいる一方で、反対する人たちの心の動揺も大きなものがありました。
付け替え検分の結果は、反対運動の影響もあり、付け替え不要と判断され、工事は見送られました。
それ以降も付け替え検分が4回実施されましたが、それでも付け替えが実現することはありませんでした。
付け替えを望んだ地域(赤)と迷惑を訴えた地域(黄)
洪水はつづく
3度目の付け替え計画が中止になって、わずか2年後の延宝(えんぽう)2年(1674)6月、大雨によって法善寺前二重堤が壊れ、玉櫛川・吉田川・菱江川や池の方に、どっとたくさんの水が流れ込んでしまいました。この影響で、大雨の際の大和川全体の水の流れが大きく変わり、あちこちの堤防が同時に切れやすくなり、広い範囲に水害をもたらすようになりました。
それ以降、1674~1676年の間に、毎年連続して広い地域で大水害が起きたのです。大和川の水害史上でも、例のないほど大きな被害だったと考えられます。付け替えを願う運動は大きく盛り上がりました。
付け替え検分から工事決定までの年表※柏原市に関係するできごと中心
西暦 | 年号 | できごと |
1660 | 万治3 | 最初の大和川付け替え検分 |
1665 | 寛文5 | 2回目の大和川付け替え検分 |
1671 | 寛文11 | 3回目の大和川付け替え検分 |
1674 | 延宝2 | 玉櫛川・菱江川・吉田川などの堤、法善寺前二重堤決壊 |
1675 | 延宝3 | 玉櫛川・菱江川・吉田川などの堤決壊 |
1676 | 延宝4 | 4回目の大和川付け替え検分 付け替え反対の柏原村など29ヵ村から嘆願書 |
1683 | 天和3 | 畿内治水調査と5回目の大和川付け替え検分 付け替え反対の柏原村など27ヵ村から嘆願書 |
1684 | 天和4 | 安治川の開削など河村瑞賢が改修工事に着手 |
1686 | 貞享3 | 久宝寺川・玉櫛川・菱江川・恩智川の堤決壊 |
1687 | 貞享4 | 川奉行の設置、最後の付け替え嘆願書、付け替え運動の規模縮小 河内・若江・讃良・茨田・高安郡から治水工事の嘆願書 |
1689 | 元禄2 | 河内・若江・讃良・茨田郡から治水工事の嘆願書 |
1703 | 元禄16 | 最後の大和川付け替え検分、10月付け替え決定 |
この前の年表は「1.大和川の歴史」へ
この後の年表は「4.付け替え後」へ
付け替え運動と柏原
大和川の付け替えに対して、柏原村は一貫して反対していました。おそらく、土地を失うことが最大の反対理由だったのでしょう。一方、大県郡の一部は洪水の危険を考えて付け替えを望んでいたものの、貞享4年(1687)の嘆願書には大県郡の名は見えず、そのころには運動から撤退したようです。付け替えの起点となった柏原市域でしたが、付け替えに対しては微妙な立場だったのです。
河村瑞賢(かわむらずいけん)
幕府もようやく天和(てんな)3年(1683)になって、国の重要な課題として取り組むことを決めました。5回目の検分が実施された結果、治水工事の専門家・河村瑞賢の意見をとりあげ、すべてを任せることにしました。淀川河口の工事を実施すれば、大和川の付け替えは必要ないとの意見です。
まず、天和4年(1684)、木を無計画に伐採することや根倒しを禁止し、植樹をすすめるお触れを出しました。次に3年かけて淀川下流の安治川(あじかわ)の改修・大和川にたまった土砂の除去・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画、改修工事を行いました。大和川と淀川の水はけをよくすることで、洪水は防げると考えたのです。この工事終了後は付け替えは必要ないと判断され、甚兵衛らは貞享4年(1687)の付け替え嘆願書を最後に付け替えを願えなくなりました。
このころ大和川の付け替えを主張した若年寄・稲葉正休(いなばまさやす)と、河村瑞賢の主張を採用した大老・堀田正俊(ほったまさとし)が対立。貞享元年(1684)、刺殺事件にまで発展し、「大和川治水・殿中殺人事件」とも言われますが、真相はまったくわかりません。
その後、元禄(げんろく)11年(1689)、前回の工事で不足だったところを補うために2回目の工事を行い、翌年に終えました。しかし、淀川下流の治水工事は大和川にはほとんど効果をもたらさず、元禄13・14年(1700・01)には、今米村あたりで大水害が起きています。
付け替え嘆願書
中甚兵衛の中家に関わる文書「中家文書」には、大和川付け替えを求めた嘆願書が2通残されています。そのうち1通は下書きと考えられるため、実際に提出された付け替え嘆願書は1通のみです。貞享4年(1687)の1月か2月に嘆願書「乍恐御訴訟(おそれながらごそしょう)」が提出されました。これには15万石あまりの百姓が付け替えを求めていると書かれています。「石」は米の量の単位で、1石が10斗、1斗が10升、1升は今の1.8リットルです。つまりお米がどれだけとれるかを示したもので、15万石は今の北・中河内と大阪市の一部を含んだ広い地域となります。
ところがこの嘆願のあと、幕府から大和川の付け替えはしない、もうこのようなお願いをするな、と強く断られたようです。
嘆願書の謎
付け替えや改修工事を求めた嘆願書は中家に残るものだけで、他にはどこからも発見されていません。また、参加していない村も含め郡として差し出されていることから、郡としてのまとまりがどの程度あったのか、代表者がどのように決まったのかなどの問題も残ります。
残った嘆願書2通は、どちらも文書の最後が意図的に切断されています。ここには肝心の日付、差出者が書かれていたはずですが、それが失われています。
さらに不思議なのは、貞享4年(1687)4月晦日と8月25日の改修工事実施の嘆願書の控に押されている印です。普通は控なので印を押す必要はないのですが、印が押されています。そして差出者である5郡の印が、わずか4ヵ月ですべて変わっています。そのうえ、4月の河内郡に中甚兵衛の印が押されているのは当然ですが、なんと8月には茨田郡に押されているのです。その8月の河内郡の印は、今米村の年寄である太右衛門の印なのです。普通ならばどこかの村の庄屋の印が押されるべきでしょう。こんなでたらめな印を押した文書が正式な嘆願書として提出されたのでしょうか。
このように、大和川の付け替えおよびその後の改修を求める嘆願書には、いくつもの謎が残されています。
左:乍恐御訴訟(貞享4年4月晦日)右:乍恐口上書以言上(同年8月25日)
(いずれも市指定文化財・中家文書)
付け替え運動の変化
貞享4年(1687)の1月か2月に出された付け替え嘆願書(15万石あまりの百姓が参加)の後、幕府から付け替え不要という強い方針が伝えられたようです。そのため3月以降の嘆願書は、付け替えではなく、流域の改修工事の要望に変化しています。改修工事とは、1674年に流された法善寺前の二重堤の復旧などです。これに参加する百姓は7万石余り、そして元禄2年(1689)の嘆願書には3万石と、わずか2年で5分の1までに減ってしまいました。これには洪水が玉櫛川筋に集中するようになったことや、幕府の付け替え不要の判断などが大きく影響したようです。
乍恐御訴訟(元禄2年)(市指定文化財・中家文書)
大和川の治水工事を求める嘆願書。
一転して、付け替え決定
付け替え運動がどんどん縮小していくなか、元禄(げんろく)13・14年(1700・01)にも玉櫛川筋の村々は、大洪水に見舞われます。14年の洪水は、今米村で一粒の米も収穫できないというひどいものだったようです。その年、幕府が洪水の被害確認にやってきて、窮状を訴える甚兵衛たちに付け替えが検討されていることを伝えます。小規模な改修工事さえ見向きもされなかった甚兵衛たちにとって、思いがけない朗報となりました。
幕府が付け替えを検討するようになった理由として、元禄13・14年の洪水被害だけでなく、治水に明るい万年長十郎(まんねんちょうじゅうろう)が堤奉行になったこと、そして治水工事を担当した河村瑞賢の死去も影響があったと思われます。
また、経費の損得勘定として、手伝普請として大名に工事を請け負わせ、幕府の負担を軽減する方法がとられることになりました。そして、幕府が工事で負担することになった約37,000両の費用は、付け替え後の新田開発の入札によって回収されました。さらに、新田では4年後からの年貢で収入が見込めます。付け替えた方が幕府の利益になるということが、決定の最も大きな理由だったのです。
付け替えの動きが始まると、当然、新川筋の村々は反対の嘆願書を提出しました。しかし今度ばかりは幕府の付け替えの意志は固く、元禄16年(1703)10月28日、正式に大和川の付け替えが決定され、翌年(1704)2月には工事が始まりました。