4.付け替え後
付け替え後の問題
付け替え後は洪水の危険も少なくなり、人々の暮らしも豊かになったかというと、現実はそんなに甘いものでもなかったようです。
新田開発
もとの大和川や池跡などは、新田に開墾されました。新田開発は、付け替えの翌年6月頃から始まり、宝永5年(1708)2月頃までに、すべて終わっています。この3年の間に、古い堤防を崩して川を埋めたり、水路や道を造ったり、家を建てたり、田畑を耕して収穫ができるようにするなど多くの仕事がありました。その間は年貢を納めなくてもよかったのです。4年目(宝永5年)から、年貢がかかりました。
新大和川によって失われた田畑は275町歩、新田として開発された田畑は1000町歩余り。付け替え前よりも田や畑の面積は大きくなっています。新田を開発する権利は地代金を払う落札によって決められ、有力な町人や地元の庄屋らが共同でこれにあたりました。新開池の鴻池新田はもっとも大きな新田であり、築留にも市村新田が開かれました。誰が開発したのかによって、町人請負、寺院請負、農民寄合請負などがありました。
しかし、新田がすぐに豊かな実りをもたらすことはありませんでした。旧河川敷のため水田には不向きで、その多くは畑として利用されました。しかも、収穫量の少ない下畑や下々畑が大半を占め、収穫量を上げるために様々な努力が重ねられました。
綿の栽培
新田だけでなく周辺の田畑も含めて、砂地で水はけのよい地を好む綿の栽培が広がっていました。河内では、一区画の田の周囲を掘り下げた土を中央に 盛り上げてできた畝に綿を、周囲の低い部分に稲を植える「島畠(しまばた)」が広がりました。綿は平野郷町の繰屋(くりや)・綛屋(かせや)で加工された他、生産地農家の内職として綿布に加工されていました。製品となった河内木綿は全国へと出荷され、丈夫だと人気になりました。組合組織もでき、江戸末期にはマニュファクチャー(工場制手工業)が展開するほどになりました。
しかし、明治以降は外国産の安い木綿におされるようになってきました。国内産の綿は短い繊維のため近代紡績に適しておらず、紡績側の働きかけにより「輸入した綿花に関税がかからない法案」が成立してしまいました。そうして国内での綿づくりは衰退していきました。それでも河内木綿の伝統をひく浴衣や染色は、最近まで地場産業として重要な位置を占めていました。
島畠(しまばた)(出典:『綿圃要務』)
新大和川周辺
新川設置のために多くの土地が失われ、川の北と南に分断された村も少なくありませんでした。また、人々が付け替え前に反対理由としてあげていたことが、次々と現実のものとなりました。西除川と東除川を分断したため、左(南)岸では水はけが悪くなり、たびたび洪水が起きるようになりました。特に西除川の下流はひどく、昭和57年(1982)にも大水害にみまわれています。堤防の近くの村々は、洪水を起こさないように堤防を見回って、穴や崩れをすぐに修理しなければならなくなりました。大きな工事は、他の村からお手伝いの人やお金を出してもらえるのですが、小さい工事は自分たちで行いました。また、右(北)岸では水不足に悩まされ、樋を伏せて対応するものの、十分には解決しなかったようです。
堺港
新河口に近い堺の町は、海に面しているので、新川が流れてくる前には高潮の被害はあったものの、川の氾濫による被害はそれほどありませんでした。ところが、新しい大和川が運んでくる土砂が河口部にたまったことで、堺港は浅くなってきました。いくら改修しても港がすぐに埋まり、船が入れなくなりました。港の位置を何度も変更せざるを得なくなり、6回におよぶ改築工事が行われたにもかかわらず、埋没を余儀なくされたのです。これによって、中世の自由な湾港都市として栄華を誇った堺の港は、衰退していきました。
付け替え後の柏原は
大和川付け替え地点には船橋村新家という24軒の村がありましたが、工事によって潰されてしまいました。また付け替え後は、洪水の危険性が減ったものの、間もない正徳(しょうとく)6年(1716)には築留の堤が切れ、市村新田から東側にかけてかなりの被害があったようです。その後も維持管理について、報告や修繕の記録が数多く残されています。
水を治める~大和川の治水~
堤防に当たる水の勢いを弱くし、堤防を守るために、川の中に杭を打ち並べたり木材を組んだピラミッドのようなものを置くことがありました。これを水制といいます。杭を打ち並べることは杭出し、または乱杭(らんぐい)といわれ、杭の間に竹や木の枝を通すこともありました。木材を組んだものは、その形から 「牛」と呼ばれました。ピラミッド形のものは「菱牛」といいます。
菱牛(ひしうし・出典『地方凡例録』)
杭出し水制(出典『地方凡例録』)
大和川に杭出しがあることは以前から知られていましたが、牛は使われていないと考えられていました。しかし、国分の古い家に残されていた史料に、牛が置かれるようになった様子が記録されていることが発見されました。
柏原市国分市場の芝山のところで、大和川は大きく北へ曲がっています。この場所は、川が曲がっているため、どうしても水のあたりが強くなり、堤防が壊れやすかった所です。昔から洪水が繰り返されていたようで、芝山の南が池のようになっていたこともあったようです。
その様子がよく分かる4枚の絵図があります(『南西尾家文書』)。1~3の絵図はわかりやすくするために北を上にしているので、文字は逆になっています。
南西尾家文書
(1)天明元年(1781)頃には、川の中にも堤防がつくられ、流れを弱くするために5列の杭出しがあったようです。
(2)寛政4年(1792)にこの川の中の堤防が崩れ、畑に水が流れこんでしまいました。そこで、菱牛(菱枠)を置いて堤防が潰れたところに水が流れ込まないようにし、対岸には石を詰めた蛇籠(じゃかご)を積み上げました。
(3)寛政7年(1795)には、水の流れが大きく曲がって、川の中の堤防はすっかり潰れてしまい、畑にも水が流れ込むようになりました。
(4)そのため、菱牛や杭の数を増やして、水の流れを変えることにしました。
この絵図を見ていると、洪水と戦う人たちの苦労がよくわかります。また、大和川に菱牛が使われていたことを示すとても貴重な史料です。
付け替え工事からの年表※柏原市に関係するできごと中心
西暦 | 年号 | できごと |
1704 | 元禄17・2月 | 大和川付け替え工事に着手 |
宝永元・10月 | 大和川付け替え工事完成 | |
1705 | 宝永2 | 大縄検地後、新田開発始まる |
1708 | 宝永5 | 新田の検地実施 |
1716 | 正徳6 | 柏原村築留の堤が決壊し50,000石の田に被害、石川の堤も決壊 |
1717 | 享保2 | 豪雨で河川氾濫、河内に大被害 |
1718 | 享保3 | 堺で大和川洪水、大和橋決壊・市内浸水、以後堺での洪水被害多数 |
1720 | 享保5 | 新田の再検地実施 |
1730 | 享保15 | 中甚兵衛(乗久)没、享年92才 |
1760 | 宝暦10 | 築留・青地樋両組合間で、用水めぐる争論 |
1775 | 安永4 | 柏原村築留で洪水 |
1903 | 明治36 | 亀の瀬で地滑り、河道隆起 |
1931 | 昭和6 | 亀の瀬で地滑り、大和川閉塞 |
1982 | 昭和57 | 松原市・王寺町などで浸水 |
失われた船橋遺跡
新大和川の工事によって破壊され、河床となった遺跡として、大阪市の瓜破(うりわり)遺跡や山之内(やまのうち)遺跡などが知られていますが、最も有名なのは柏原市から藤井寺市にかけて広がる船橋(ふなはし)遺跡です。河内の中心部、そして旧大和川と石川が合流するという立地に恵まれ、縄文時代から近世にかけて、連綿と遺跡が続いていたようです。
これまでに増水によって河床や河岸がえぐられるたびに多量の遺物が洗い流され、多くの人々によって土器などが採集されています。
船橋遺跡1993年1次調査
船橋遺跡の歴史
縄文時代
縄文時代晩期の土器には「船橋式土器」という名称が与えられ、絵画と考えられる線刻を記した土器が注目されています(『船橋遺跡出土縄文絵画土器』)。その頃に、大阪平野では水田による稲作りが始まったようです。
船橋遺跡出土縄文絵画土器(市指定文化財)
弥生時代~
数多くの遺物から、弥生時代には集落や墓が広範囲に広がっていたと考えられます。やや下流でも多数の墓などが確認されています。
弥生時代から古墳時代にかけては、住居跡と井戸から多数の土器が良好な状態で出土しています。それらのなかには、西日本を中心に各地からもたらされた土器が多数含まれており、旧大和川を利用した港のような性格があったのかもしれません。
1993年1次調査で出土した土器
飛鳥時代
飛鳥時代になると、かなり早い時期に寺院が建立されています(船橋廃寺)。以前は、河床に寺院跡の礎石が露出していたといいます。
船橋廃寺式軒丸瓦(素弁八葉蓮華文軒丸)
奈良時代
奈良時代には南に隣接する国府(こう)遺跡に河内国府(こくふ)がおかれ、その国府が一時期、船橋遺跡にあったという説もあります。また、和同開珎やその鋳型の出土から、銭を造る鋳銭司(ちゅうせんし)がおかれていたのではないかとも推定されています。そして、その後は農村風景が広がっていたようです。
流路はたびたび変化しており、河床の船橋遺跡はほとんど壊滅状態になってしまったようです。実施された発掘調査は数回のみで、十分な調査を行うこともできないまま遺跡が破壊されていくという残念な結果となりました。大和川の付け替えを考えるとき、失われた貴重な遺跡があることも忘れてはならないことの一つでしょう。