平尾山古墳群雁多尾畑49支群

2017年10月8日

 平尾山古墳群雁多尾畑支群内の標高約350mの南斜面、霊園の造成工事に伴う発掘調査によって、1号墳と3号墳の間から4基の骨蔵器を伴う火葬墓が発見されました。

平尾山全体図
平尾山古墳群雁多尾畑49支群 全体図
(図出典:柏原市教育委員会1989「平尾山古墳群」)

1号墓

 1号墓には盛土は確認されていませんが、周囲に溝をめぐらせた一辺4.5mの小さな方墳状と推定されています。その中央に自然石で囲んだ一辺60cm四方の埋葬施設がありました。平らな台石の上に骨蔵器となる須恵器・有蓋短頸壺が置かれ、中には焼骨が詰まっていました。

1号墓骨蔵器
1号墓 骨蔵器・副葬品検出状況(右端に小さく和同開珎銀銭が見えます)

 その周囲からは、須恵器・平瓶、土師器・坏、和同開珎が出土しています。和同開珎は、台石の上から4枚の銅銭が、その反対側の台石と壁石の間から銀銭1枚が見つかりました。和同開珎銀銭の出土は、非常に珍しく、8世紀前半から中ごろの火葬墓と考えられます。

平尾山1号墓和同開珎
1号墓出土 和同開珎

平尾山1出土図
古墓1 左:全体図 右:骨蔵器等出土状況
(図出典:柏原市教育委員会1989「平尾山古墳群」)

 火葬墓に須恵器の平瓶、土師器の坏、銭貨が伴う例は岡山県や兵庫県でも知られており、8~10世紀にかけて死者に対する同様のまじないが西日本各地で行われていたという指摘があります。

2~4号墓

 2~4号墓は、どのように埋められたか不明ですが、いずれも小さな穴を掘って、そこに骨蔵器として把手付の深い鍋を安置したと思われます。

 2・3号墓は隣接し、どちらも直径30cm前後の墓坑内に土師器の把手付甕を置いています古墓2の鍋の上部は、土師器杯2点、皿2点を倒位で被せて覆っています。

 4号墓は、円形の墓坑底に自然石を置き、その上に土師器の把手付甕を置いたものです。

平尾山2号墓骨臓器
2号墓 骨蔵器

平尾山2号墓土器
2号墓 出土土器

 1~4号墓の周囲では、骨蔵器と考えられる須恵器・有蓋壷や、埋土に木炭を多量に含んだ土器、釘が出土した方形の土坑なども発見されています。これらは火葬墓群に関連する遺構と考えられます。

年代

 2・3号墓は8世紀前葉、1・4号墓は8世紀中葉頃のものと考えられ、7世紀末葉頃に築造された最後の古墳(10号墳)から引き続いて営まれたと考えられます。ここでは倒立させた骨蔵器、埋土の炭・灰が認められない点、そして造墓が短期間で終了する点が特徴です。

移行の空白期間

 雁多尾畑49支群以外の火葬墓群では、古墳造営終了から火葬墓の造営までに若干の空白期間があります。火葬墓への移行には、古墳から火葬墓へ継続して築かれる例と、断絶する例があったと考えられます。

 ただし断絶する例については、木棺直葬や土坑墓などの小規模な古墳が造営されたとしても、調査では確認できず空白期間となったとも考えられます。その根拠は、田須谷古墳群(南河内郡太子町春日)では、この期間を埋める遺物が出土しており、木棺直葬や土坑墓のようなかたちで、造営が続いていたと考えられるからです。木棺直葬や土坑墓の場合、削平されると検出は困難です。さらに、この時期の木棺直葬などは遺物を伴わず、まったく痕跡を残さないものもあると考えられます。

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