7-1.平尾山古墳群
柏原市東部の山間部に広がる平尾山古墳群は、これまでに1,407基の古墳が確認されている全国最大規模の群集墳です。6世紀代で造営を終える群集墳が多いなか、平尾山古墳群では7世紀代にも盛んに造墓されています。とりわけ雁多尾畑支群と平尾山支群には7世紀代のものが多く、雁多尾畑第49支群のように、ひとつの支群で完結した終末期群集墳と位置づけられるものもみられます。
雁多尾畑第49支群
雁多尾畑第49支群は、霊園墓地の造成に伴い確認された後、削平され現存しません。墳丘を確認できたものはすべて方墳です。埋葬施設は、1・3・4・9号墳が無袖式横穴式石室、5~8号墳が竪穴系の小石室、2号墳が木棺直葬、10号墳が木炭槨となっています。副葬品は2・3・4・7・8号墳からの金環以外には、須恵器・土師器が出土しているのみです。
石室の袖(そで) |
木炭槨の10号墳全景
副葬品の金環
上段左から2・2・3・4号墳、下段左から7・8・8・8号墳出土
群の構成
平尾山古墳群全体図(図出典:柏原市教育委員会1989「平尾山古墳群」)
まず各古墳の年代や位置関係から、5・6号墳、7・8号墳が2基で対をなすことが注目されます。おそらく7世紀前半から末にかけて、4号墳、3号墳、7・8号墳、5・6号墳、10号墳の順に造営されたと考えられます。そして、3号墳・10号墳は2基の木棺を並列して埋葬していました。
群構成復元案(図出典:安村俊史2008「群集墳と終末期古墳の研究」)
4号墳では木棺の位置関係は不明ですが、釘の形態から、やはり2棺を安置していたようです。ひとつの棺に使用されていた銅釘は、頭部に塗金したものです。どうやら、雁多尾畑第49支群では2基の木棺、もしくは1体埋葬の古墳2基を1対として築造しているようです。この2人の被葬者は夫婦と考えていいのではないでしょうか。
4号墳出土頭部鍍金銅釘
7・8号墳の1対を夫婦と考えると、8号墳のほうが石室規模が大きく夫と考えられ、先に築造されたとみられます。この8号墳からは金環が3個出土しています。ところが7号墳からは金環が1個出土しているのみで、この1個は8号墳の1個と同形同大で、この2個で1対になるようです。これは夫が亡くなったときに、妻が自分の金環1個を夫に供えたのではないでしょうか。そこに、麗しい夫婦の愛を読み取ることは考えすぎでしょうか。
7・8号墳出土 金環(図出典:柏原市教育委員会1989「平尾山古墳群」)