玉手山公園と玉手山古墳群、玉手山(安福寺)横穴群

2014年4月18日 (まちの魅力づくり課)

 玉手山物語

玉手山古墳群

安福寺横穴群

玉手山と大阪夏の陣

小林一茶と玉手山

 

市立玉手山公園など玉手山の一帯は、大坂夏の陣(1615)の古戦場であるとともに古墳時代前期(4世紀)の古墳群でもある。大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されている。
また、公園に隣接する安福寺参道などには、6~7世紀の墓である横穴群も存在し、考古学上も大変貴重な地域である。

1 玉手山古墳群

玉手山古墳群の古墳は、すべて古墳時代前期に築造されたものであり、中期以降に時代が下るものは知られていない。短期間に複数の地域首長が、玉手山丘陵を共同の墓域として、造墓活動を繰り返した結果、形成されたものだと考えられている。
古墳時代前期 ・・・ 4世紀ごろ
中 期 ・・・・・ 5世紀ごろ
後 期 ・・・・・ 6世紀ごろ
終末期 ・・・・・ 7世紀ごろ
玉手山古墳群は、本市域から羽曳野市域にまでひろがる古墳群で、本市域内の古墳の概略は、以下のとおりである。

 

1 第1号墳

前方後円墳。墳長110メートル~120メートル。後円部の頂上に大坂夏の陣で討ち死にした、徳川方の武将・奥田三郎右衛門の墓がある。

2 第2号墳

前方後円墳。墳長60~70メートル。現在は、古墳全体が墓地になっている。

3 第3号墳

前方後円墳。墳長100メートル。別名、勝松山。また、勝負山、小松山とも呼ばれる。市立老人福祉センター「やすらぎの園」のすぐ南に隣接。大坂夏の陣では、このあたりの争奪が焦点となり、激戦が繰り広げられた。また、安福寺境内にある、割竹形石棺蓋(重要文化財)は、この古墳から出土したと伝えられる。

4 第4号古墳

前方後円墳。墳長50~60メートル。宅地造成のため、消滅。

5 第5号墳

前方後円墳。墳長75メートル。宅地造成のため、消滅。

6 第6号墳

前方後円墳。墳長69メートル。宅地造成のため、消滅。

7 第7号墳

前方後円墳。墳長150メートル。玉手山丘陵の最高所にある古墳。安福寺の後ろにあるところから後山古墳とも呼ばれる。前方部には尾張徳川家第2代藩主・徳川光友らの墓があり、後円部には大坂夏の陣両軍戦死者の供養塔が建っている。

8 第8号墳

前方後円墳。墳長80メートル。

9 第9号

前方後円墳。墳長65メートル。

10 第10号墳

前方後円墳。墳長45~55メートル。別名、北玉山古墳。消滅。

 

2 玉手山古墳群を造ったのは大和朝廷の先祖?

玉手山古墳群のすぐ西に応仁天皇陵(誉田山古墳)に代表される古市誉田古墳群(5世紀の古墳群)がある。これとの関係から、4世紀に玉手山古墳群を造営した豪族が発展して、古市誉田古墳群を造営するようになった、とする説がある。すなわち、玉手山古墳群を造営した豪族こそが、後の大和朝廷の先祖だというわけだ。
ただ、玉手山古墳群の古墳は、時代が下る(新しくなる)ほど質が低下していく傾向がある。そうすると、これらの豪族たちは、むしろ衰えていったとかんがえる方が自然だということになる。
しかし、かつて、柏原の地に大和朝廷のルーツがあったとする説は、実に魅力的ではある。

 

3 玉手山横穴群(安福寺横穴群)

安福寺参道の両側に合計32基の横穴があり、大阪府の史跡指定を受けている。凝灰岩の崖面を掘って造られたもので、短い羨道と玄室からなり、天井はゆるいアーチ状となっている。造り付けの石棺をもつもの、陶質棺がおさめられているもの、騎馬人物像などの線刻壁画が描かれたものなどがあり、全国的に有名である。

「玉手山安福寺牛頭天王山に土の塚穴二十余有り」(河内鑑名所記、延宝7年・1679)
「玉手山山中に塚穴二十余個あり、中より金環、陶器出る」(河内名所図会、享和元年・1801)

とあり、古くから知られていたことが、うかがえる。
安福寺近くの玉手地域コミュニティ会館のそばにも5基の横穴があり、こちらも玉手山横穴群の一部である。
また、玉手山東横穴群、約20基の存在も確認されている。
これらの横穴は、本市高井田の高井田横穴(国の史跡)と同種のもので、大阪府下では本市にのみ存在しているものである。

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