小林一茶と玉手山

2021年8月1日

 玉手山物語

玉手山古墳群

安福寺横穴群

玉手山と大阪夏の陣

小林一茶と玉手山

 

1.一茶の玉手山、来訪

小林一茶は、寛政4年(1792)から同10年までの約6年間、西国、上方方面を旅行。
その途中、寛政7年(1795)、明石から大坂に入り、天王寺、平野を通って、4月3日に葛井寺と道明寺に詣でた後、当時すでに景勝地として有名だった玉手山を訪れている。
寺は、道明寺という。わずかに行けば玉手山、尾州公の荼毘所あり。竜眼肉の木ありて、このかいわいの景勝地なり。艮(うしとら)の方にかつらぎ山見ゆる。折りから遊山人處々につどう。(西国紀行)
西国、上方方面への旅行を記した、一茶の著書「西国紀行」には、玉手山で詠まれた俳句2句が収められている。

 

初蝉や 人 松陰を したふ比(ころ)

雲折りく 適(まさ)に青菜見ゆ 玉手山


現在、玉手山公園内には、「初蝉や」の句を「西国紀行」の原文から複写拡大して刻んだ句碑が建っている。
尾州公の荼毘所とは、公園に隣接する安福寺境内にある、尾張徳川家2代藩主・徳川光友の墓のことである。ちなみに光友の墓が建っているのは、玉手山古墳群第7号墳の前方部であり、同じ古墳の後円部(後円部は、公園内)には大坂夏の陣両軍戦死者の供養塔が建っている。
ところで、「西国紀行」には、艮(うしとら=東北)の方向に葛城山が見える、と記されているが、これは巽(たつみ=南東)の誤りであろう。

2.小林一茶 略伝

宝暦13年(1763)5月5日、信濃国柏原村(現・長野県上水内郡信濃町)の農家で生まれる。 本名、小林弥太郎信之。俳諧寺一茶、二六庵菊明とも号した。
3歳で母と死別。15歳のとき江戸に出る。以後10年間、流浪生活を続けながら俳諧に専念、25歳ごろ、葛飾派の竹阿に入門する。竹阿の死後、判者となる。
寛政3年(1791)、初めて帰省。その翌年から約6年間、西国、上方方面に旅行する。享和2年(1802)、父死亡。以後10年以上にわたって異母弟との遺産相続争い。
遺産相続争い決着後、52歳のとき、初めて結婚。計4人(男3人、女1人)の子どもを得たが、全員、幼くして死亡。さらに、妻とも死別する。その後、再婚するが、文政10年(1827)11月19日、仮住いの土蔵の中で死去する。
幼少時からの逆境が、その作風に影響を与えたといわれる。強者への反感と弱者への同情、俗語を駆使した主観的作風、人生詩的傾向などである。

主な著書は、「おらが春」、「一茶発句集」、「七番日記」など。

玉手山を訪れたのは、一茶の人生の中で最も落ちついた時期であった。
玉手山で詠まれた句が、初夏という季節とも相まって、さわやかな印象を受けるのは、そのせいでもあろうか。

 

玉手山のつつじ
市の花にもなっている「つつじ」 玉手山