【コラム】大和川のつけかえ-つけかえしないと決めてから- (8) 貞享4年からの付け替え運動

2023年11月2日

 天和3年(1683)の検分の結果、河村瑞賢が翌貞享元年(1684)から着手した淀川の治水工事を貞享2年に終え、貞享3年(1686)から大和川の治水工事に着手していました。しかし、その間にも大和川の堤が切れる洪水があったことが「堤切所之覚」(中家文書)に記録されています。貞享元年に玉櫛川・菱江川・吉田川で7ヶ所、貞享3年に玉櫛川・菱江川・恩智川で3ヶ所、貞享3年には久宝寺川筋荒川村でも堤が切れています。大坂市中の水はけはよくなったようですが、河内の農村部の水はけは一向によくならなかったようです。このような実態から、貞享4年(1687)1月頃に大和川の付け替えを求める「乍恐御訴訟」(中家文書)が提出されました。

 「先年より奉願候、大和川之流、船橋村前より堺之北之方海迄、川違被為成被下候得ハ、水所拾五万石余之百姓、永々迄之御助ニ罷成候ニ付、乍恐川違御願申上候御事」

 「以前からお願いしていますように、大和川を付け替えてくださると、洪水で困っている15万石余の土地の百姓が助かることになります。」という内容です。

 ところが、貞享4年3月7日付けの「乍恐御訴訟言上」(中家文書)では、付け替えをあきらめて、川幅の拡幅や新しい水路の開削、法善寺前二重堤の修復などの治水工事を求めています。そうすれば7万石余の百姓が助かるとされています。

 どうやら先に出された付け替え嘆願書に対して、幕府から厳しい回答があったようです。当然でしょう。幕府は付け替え不要と決定し、淀川の治水工事を行い、貞享4年の1月頃ならば、大和川の治水工事を行っていた最中です。幕府が、二度とこのような嘆願書を提出するなと怒ったに違いありません。その結果、3月には付け替えをあきらめて治水工事の嘆願に変わったのでしょう。嘆願に参加する村も半分に減っています。

 貞享4年以降、付け替えの嘆願書が提出されることはなくなり、治水工事の嘆願のみとなります。そして嘆願に参加する村も次第に少なくなっていったことがわかっています。幕府の付け替え不要という決定は厳しいもので、河内の百姓らは付け替えをあきらめてしまったようです。

 (安村)

「乍恐御訴訟」(中家文書)

「乍恐御訴訟」(中家文書)
 唯一残る大和川の付け替え嘆願書。

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