【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (9)百済の王族が眠る?

2023年6月1日

 これまで検討してきたように、高井田山古墳には百済からの王族クラスの人物夫婦が埋葬されていると考えています。『日本書紀』などにみえるように、5世紀後半に王族の昆支が渡来し、その一族が日本に定着していたことがわかります。この事実からも、高井田山古墳の被葬者が百済の王族であると考えることは無謀なことではないでしょう。その人物とは昆支なのかもしれません。
 その一族が大県遺跡周辺に定着したことが認められるとして、なぜ周辺に同時代の村も古墳もない高井田山古墳の位置に古墳を築くことになったのでしょう。ただ見晴らしのいいところならば、大県遺跡の東方にもいくらでもあったはずです。
 高井田山古墳の横穴式石室は、南に開口しています。中国や朝鮮半島では、基本的に墓は南向きに築かれました。高井田山古墳も同じです。南への視界を考えたとき、大県郡内では高井田周辺が大和川を眼下に望む好立地にあります。北から南へのびる狭い丘陵の尖端に高井田山古墳が位置しています。南眼下に大和川を見下ろすことができます。この大和川が重要な鍵を握っていると考えています。
 大和川を下ると河内に広がっていた河内湖につながっています。そして上町台地の北の堀江、大川を通じて瀬戸内海につながっています。大和川を下っていけば、河内湖、瀬戸内海を経て百済へと帰ることができるのです。故郷の百済を偲んでこの地が埋葬地に選ばれたのではないでしょうか。亡くなったあと、せめて魂だけでも百済に帰ってもらいたい。そんな思いで築かれたのではないでしょうか。
 高井田山古墳は百済の人々によって築造され、百済の埋葬方法で埋葬された古墳でした。その一方で、墳頂に埴輪を立て、器台や壷を使用した日本の伝統的な儀礼も認めることができます。渡来以後、在地の人々とも交わるなかで、在地の埋葬儀礼なども取り入れつつ、百済のしきたりを失うことなく葬られたのが高井田山古墳の被葬者だったのでしょう。これ以降、次第に在地の生活習慣を取り入れて渡来色が失われていったのではないかと考えられます。渡来してきた人たちの思いについても想像をめぐらせていきたいと思っています。

(安村)

高井田山古墳の位置

高井田山古墳の位置

【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳
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