【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (1)横穴式石室の源流を探る

2023年4月27日

 高井田山古墳の石室は、近畿地方では初期の横穴式石室です。右片袖式で短い羨道が取り付き、天井はドーム状となります。これに似た石室を求めると、百済の横穴式石室にたどりつきます。韓国のソウル特別市内にある可楽洞(カラクトン)古墳群や芳夷洞(パンイドン)古墳群などに、構造のよく似た石室があります。百済は北の高句麗に攻められ、475年に都を漢城(ハンソン、現ソウル特別市)から熊津(ウンジン、現公州市)へ遷します。そのため、これらの古墳群は475年以前の古墳群と考えることができるのです。しかし、出土土器から6世紀後半の古墳群と考える研究者もいます。この中には高井田山古墳よりも古い石室があり、高井田山古墳の石室の祖形となったものがあると思うのですが、断定できないのです。
 ところが原州市法泉里(ポムチョンリ)1号墳など、最近になって高井田山古墳の石室とよく似た漢城期の石室が発見されるようになりました。その中には右片袖式石室が多く、確実に475年以前に遡るものがあると考えられます。
 熊津に都を遷したのち、王陵が造営されたのは宋山里(ソンサンリ)古墳群です。宋山里古墳群にも高井田山古墳に似た石室があるのですが、玄室平面形が方形に近く、羨道の幅が狭いものが多く、少し高井田山古墳とは異なります。この事実から、高井田山古墳の横穴式石室は、漢城期百済の横穴式石室を祖形とするのではないかと考えられます。
 大阪府内でも、高井田山古墳よりも古い藤井寺市藤の森古墳の横穴式石室があります。同じ右片袖式なのですが、藤の森古墳の玄室は細長く、百済の横穴式石室とは少し違うようです。百済の石室の影響を受けているのはまちがいないのですが、伝統的な竪穴式石室から脱却できなかったようです。これ以外にも塔塚古墳など高井田山古墳よりも古い横穴式石室があるのですが、いずれものちに影響を与えるようなものではなかったのです。しかし、高井田山古墳と同じタイプの横穴式石室は、このあと多数造られるようになり、大型化した石室は畿内型横穴式石室として定着していきます。高井田山古墳の石室は、畿内の横穴式石室の原点となった石室としても高く評価できるのです。

(安村)

高井田山古墳と法泉里1号墳の横穴式石室(報告書より)

高井田山古墳と法泉里1号墳の横穴式石室(報告書より)

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