【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(6)理由5 付け替え後にもとの大和川が新田に開発された。

2022年10月7日

 大和川が付け替えられたあと、もとの大和川筋は新田に開発されました。新田開発に参加したのは、町人、有力農民、寺院などで、その権利は入札によって決められました。付け替え直後に行われた入札結果を記録した「古川筋堤床敷深野池并新開池新田大積帳」によると、旧川床にできる新田は1,028町歩余り、高約1万石で、地代金37,120両余りとなっています。
 理由6でみるように、幕府が付け替え工事で負担した費用は約37,500両でした。新田開発に伴う入札額とほぼ同じなのです。おそらく、付け替え工事に着手する前に入札額を積算し、37,000両余りという金額を把握していたのでしょう。それに見合う額だけ工事費を負担する計画を立て、残りは大名手伝いとしたのです。こうすれば、幕府の実質的な負担はありません。新田開発の落札額をあらかじめ算定し、それに合わせて入札させたのが実態でしょう。鴻池新田の新田開発経過などを見ていると、事前に幕府と鴻池とのあいだで契約方法などの話ができていたと考えられます。幕府は落札予定者と、入札額などを事前に取り決めていたのでしょう。
 新大和川によって、274町歩ほどの田畑が潰れました。しかし、その4倍の新田ができたのです。そして、新田からは年貢が納められます。鍬下三年といい、開発から3年間は収穫が十分に見込めないため、年貢は免除されました。旧大和川筋の場合、宝永2年(1705)から新田開発にかかり、宝永5年に検地が行われ、検地の結果に基づいて年貢高が決められ、宝永5年から年貢が納められました。さらに、それまではたびたびの洪水で安定した年貢が期待できなかったところが、洪水の減少で流域の村々からの年貢も安定します。幕府にとって、かなりの増収が見込まれたのです。
 つまり幕府は付け替え工事の費用負担は必要なく、そして年貢の増収が見込まれるということになります。大和川の付け替え工事は、幕府に利益をもたらす事業だったのです。

(安村)

コラム6

旧大和川筋に開かれた新田 

【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?

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