【コラム】大和川つけかえに反対した人たち (3)2・3回目の付け替え検分と反対運動

2022年2月25日

 寛文5年(1665)に2回目の付け替え検分が実施されました。5月に小姓組松浦猪右衛門信定、書院番阿倍四郎五郎政重が淀川・木津川・大和川の巡視を行っていますが、大和川の付け替えについて、真剣に検討していたのかどうかは、よくわかりません。その結果、翌寛文6年(1666)2月に諸国山川掟とも呼ばれる土砂留令が出されています。山の荒廃によって土砂が雨で流れ出し、土砂の堆積が進んで川底が浅くなります。それが洪水の原因なので、山の荒廃を抑えることが重視されていたのです。具体的には、草木の根の掘り起こしを禁止して植樹を奨励し、焼畑も禁止しています。灯りとして利用するために、松の根などを掘り起こすことが、山が荒れる大きな原因だったようです。また、川幅を狭めることも禁止しています。河川敷などが耕作地となっているところも多く、川幅を狭めることになっていたのです。そして、8月に淀川・大和川・木津川筋に堤川除破損修復奉行を派遣しています。結局、付け替えではなく土砂留めでした。この際にも付け替え反対の嘆願があった可能性がありますが、史料は残っていません。
 3回目の検分は、6年後の寛文11年(1671)でした。10月に永井右衛門直右、藤懸監物永俊が派遣され、柏原村・船橋村領内から手水橋まで1町ごとに傍(牓)示杭が打たれました。傍示杭とは、新川の予定地中央に目印のために打たれた杭です。これを付け替え地点から河口まで1町(約109m)間隔で打ち、新しい川を造ることができるかどうか検討したのです。このときには、付け替え担当の役人まで決められ、付け替え工事の着手は目前だったようです。新川沿いの村々は付け替え反対を訴えましたがまったく受け入れられず、暗い年越しとなり、江戸への訴えも検討されていました。付け替え嘆願書は残っていませんが、「川床の百姓先祖より所持の田地川ニ成候得は、渇命ニはなれ乞喰ニ罷成候、然上永生無益と思詰自害仕死申百姓も御座候。狂乱仕候百姓は多御座候」ということです。付け替えが実現して先祖よりの土地を失うことになれば、生きていくことはできず乞食になるしかない。こうなっては生きていても仕方がないとして自死する人や、狂ってしまう人も多数あったということです。しかし、理由はわかりませんが、寛文12年2月に付け替えの見送りが決定され、3月には傍示杭も抜かれ、ようやく百姓は安堵したということです。(安村)

コラム1「大和川附換摂河絵図」 (中家文書)

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