【コラム】大和川つけかえに反対した人たち (1)付け替え反対運動の始まり

2022年2月25日

 現在の大和川の柏原から下流部分は、江戸時代の宝永元年(1704)に新しく造られた人工の川です。それまでの大和川は、柏原から北もしくは北西に流れて、大坂城の北で旧淀川(現在の大川)に流れ込んでいました。現在の大和川は、付け替えられた川なのです。
 この付け替えをめぐって、付け替えを求める人たちと付け替えに反対する人たちがいました。河内の国を二分する意見の対立があったのです。一般に大和川の付け替えを語るとき、付け替えを求める人たちからの視点で語られることが多いのですが、今回は付け替えに反対した人たちの視点から付け替え工事をみていきたいと思います。

 付け替え反対運動が始まったのは、幕府によって付け替えが検討されるようになったからです。そして、幕府が付け替えを検討するようになったのは、付け替えを求める人たちがいたからです。まず、付け替え運動の始まりからみていきましょう。
 付け替え運動がいつから始まったのか、正確なことはわかりません。しかし、それについての記録があります。河内国(かわちのくに)丹北郡(たんぼくぐん)城連寺村(じょうれんじむら)(現在の松原市天美の一部)の『新大和川堀割由来書上帳』(長谷川家文書)は、大和川付け替え前後のようすが、付け替えに反対していた村の視点から記録された貴重な史料です。今回のコラムでも何度も引用させていただくことになります。付け替えから92年後の寛政8年(1796)にまとめられたものなので、不正確なところもあると思われ、また反対していた村の記録なので、誤解や誇張もあると思われますが、幕府に提出した史料なので、事実関係については大きな誤りはないと思われます。
 そこには、下河内の村々が付け替えを願い始めてから元禄16年(1703)まで、およそ45年になると書かれています。江戸時代には去年を2年前、一昨年を3年前と数えるので、45年前は万治2年(1659)となります。その翌年(万治3年)に幕府による初めての付け替え検分が行われていることから、これは事実と考えていいでしょう。付け替え検分の実施に伴って付け替え反対運動が始まったので、付け替え運動の開始は万治2年(1659)、付け替え反対運動の開始は翌年の万治3年(1660)ということになります。

参考文献:安村俊史『大和川の歴史』2020 (安村)

コラム1『新大和川堀割由来書上帳』 (長谷川家文書、写真は松原市文化情報振興事業団提供)

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