【コラム】大県誕生から1,300年(8)奈良時代の大県郡

2020年11月17日

 大県郡の成立したのが養老4年(720)、奈良時代が始まって10年後のことです。それでは当時の大県郡は、どんなようすだったのでしょう。
 推古21年(613)に整備されたと考えられる難波と大和を結ぶ道、龍田道は、平城京遷都によって、再び難波への道としてクローズアップされるようになりました。聖武天皇は難波宮を瓦葺きの豪壮な宮として再整備し、天平4年(732)ごろに完成しています。それに伴って龍田道も整備され、竹原井離宮の造営や駅家の設置が行われたと考えられます。竹原井離宮は鳥取郷の大和川右岸に瓦葺の離宮として造営されました。駅家とは、緊急時の連絡などに使用するために馬を常備しておく施設のことです。津積駅家は、津積郷と大里郷、鳥坂郷の接するあたり、現在の柏原市安堂町に設けられていたと考えられます。大和から河内への山越えのルートも変更されたようです。
 それまでは竹原井離宮付近で大和川を右岸から左岸に渡り、国分市場、国分本町を通って石川を渡って渋河道に入ったと考えられます。しかし、難波宮造営に伴って、青谷から雁多尾畑の上徳谷を通って安堂へ下るルートに変更されたと考えられます。太平寺と安堂の境付近に下って大和川を渡るのですが、そこには河内大橋と呼ばれる立派な橋が架かっていました。
 天平12年(740)に、このルートで難波宮へ行幸する途中、聖武天皇は智識寺の蘆舎那仏を礼拝し、それが東大寺大仏の造立契機となったことはよく知られています。聖武天皇の娘の孝謙天皇も、天平勝宝元年(749)に智識寺に参拝し、天平勝宝8歳(756)には智識寺を初めとする河内六寺に参拝しています。
 そして、それらの寺院を建立したのも、河内大橋を架橋したのも、新しく道を開いたのもすべて知識の力だったと考えられます。知識とは、仏教を深く信仰し、仏教のために私財を寄進したり寺院や仏像の造営のために働く行為、もしくはそれに従事する人々のことです。大県郡には、知識の人々が多数居住していたのでしょう。そして、そこには仏教に彩られた仏教都市とでも呼ぶべき景観がみられたと考えられます。
 大県郡の成立した奈良時代は、大県郡がもっとも華やかだった時代と言っていいでしょう。

(安村)

大県コラム写真奈良時代の龍田道

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