【コラム】大県誕生から1,300年(6)堅下郡と郷

2020年11月10日

 堅上郡と分離された堅下郡には、大里(おおさと)、鳥坂(とさか)、鳥取(ととり)、津積(つつみ)の4つの郷があったと考えられます。大里郷は八尾市神宮寺から安堂町の一部までの山麓部、おそらく旧国道170号(東高野街道)より東の範囲と考えられます。鳥坂郷は安堂町の一部から高井田まで、鳥取郷は青谷でしょう。津積郷は旧国道170号と旧大和川のあいだでしょう。
 このなかで、大里郷だけ範囲が広すぎるように思われます。ほかは江戸時代の一つの村と一郷がほぼ対応しますが、大里郷には神宮寺、山ノ井、平野、大県、太平寺が対応します。発掘調査成果からみても、この範囲内にはかなりの人が住んでおり、一郷とは考え難いのです。何か理由があって一郷とされていたのでしょう。たとえば、この範囲には河内六寺のうち3~5か寺が含まれていたと考えられます。ここを本拠地としない仏教関係者(知識)らが多数居住していたため、全体で一郷としていたのかもしれません。
 郷は奈良時代初期まで「里」でした。本来は五十戸で一里なのですが、あまりにも居住者が多かったので大きな「里」、つまり「大里」であったと考えることができるかもしれません。
 堅下郡の中心は大里郷で間違いないでしょう。郡の役所である郡衙(ぐんが)が置かれたのは、大里郷の中心、鐸比古鐸比売(ぬでひこぬでひめ)神社の参道南側にあったと推定されています。参道の北側には河内六寺の一つである大里寺があったと考えられています。現在の大県4丁目付近が大県郡の中心だったのでしょう。
 鳥坂郷には河内六寺の一つ鳥坂寺がありました。鳥坂寺周辺には「戸坂」という小字名が広がっており、「とさか」と呼ばれたと考えられます。サンヒル柏原付近で飛鳥時代(7世紀)の住居跡が多数確認されています。
 青谷周辺に「鳥取」という地名がみられるので鳥取郷は青谷でしょう。かつて「鳥取千軒」とも呼ばれる集落があったようです。古代には鳥取氏の本拠地だったと考えられ、郷内を龍田道が通過しているため、古代には重要な位置を占めていたと考えられます。
 津積郷は大和川右岸に沿って南北に長い郷だったと考えられます。おそらく大和川の「堤」に関連する地名でしょう。7世紀になると旧国道170号の西側へも居住地が拡大したことがわかっています。7世紀以降の人口増加に対応して新しくつくられた郷とも考えられます。

(安村)

大県コラム写真大県郡と郷
 

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