【コラム】大和川のつけかえ(2)付け替え運動のはじまり

2020年9月15日

 大和川の付け替えを求める運動がいつごろから始まったのか、確かなことはわかっていません。しかしながら、丹北郡城蓮寺村(現松原市)の「新大和川堀割由来書上帳」(寛政8年・1796)に、「下河内村々願始より元禄十六未年迄、凡四拾五ケ年ニ成申候」と書かれています。このころは、去年を二年前、一昨年を三年前と数えるので、元禄16年(1703)の45年前ということは万治2年(1659)となります。幕府による最初の付け替え検分が行われたのが万治3年(1660)なので、万治2年に付け替えの嘆願書が出され、翌年に検分が行われたと考えると整合的です。今のところ、付け替え運動の開始は万治2年と考えていいと思います。
 そこには「下河内ノ内芝村三郎左(右)衛門・吉田村次郎兵衛与申者、度々江戸江詰、願上」と書かれており、付け替え運動の中心が芝村(東大阪市中石切町周辺)の曽根三郎右衛門と吉田村(東大阪市吉田周辺)の山中治郎兵衛の二人だったことがわかります。
 このころ大和川だけでなく、淀川の治水も大きな問題となっていました。そのため、幕府は万治3年(1660)に「土砂留令」という触れを出しています。そこには、山の樹木を掘り起こすことの禁止、山に植樹をすすめること、などが求められています。川に土砂が堆積するのは、山が荒れて土砂が流出するからで、山が荒れる一番の原因は木の根を掘り起こすことだと指摘しています。このころ、夜なべ仕事をすることが多くなり、明かりとして松などの根を利用することが多くなっていたのです。
 そのうえで同年10月に、幕府の付け替え検分が行われました。このときには、志紀郡弓削村・柏原村から住吉手水橋までのルートについて付け替えが検討されました。現在の大和川よりも、もう少し北で付け替えを考えていたようです。その結果は、付け替えではなく、山の木の根堀を禁止し、苗木の植樹を命じるという従来の判断のままでした。
 この検分に対して、新川周辺の河内国志紀郡・丹北郡、摂津国住吉郡の村々が反対の嘆願書を出していたようです。そこには、田地・屋敷が川底となり、領地が分断される。北流する多くの井路川が新川堤にせき止められて、南側は水損場に、北側は用水源がなくなることで日損場になると訴えています。水損場とは水が滞ること、日損場とは水不足になることをいいます。この反対理由は、終始反対運動の中心となる考えでした。 

(安村)

コラム写真

「摂河両国水脈図」(柏元家文書)

 

 令和2年9月8日(火)から12月6日(日)まで、企画展「大和川のつけかえ-求める人と反対する人-」を開催しています。

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