【コラム】龍田古道(8)称徳天皇の行幸

2022年2月25日

 孝謙天皇のあと淳仁天皇が即位しましたが、藤原仲麻呂を後ろ盾とする淳仁天皇と、道鏡を寵愛する孝謙太上天皇の対立が表面化します。天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱によって淳仁は淡路島に流され、孝謙が再び即位して称徳天皇となりました。
称徳天皇は、翌年の10月に紀伊国へ行幸し、その帰路に弓削行宮(八尾市東弓削)を訪れています。弓削行宮から平城宮への帰りは龍田道を通ったはずですが、宿泊したという因幡宮の位置がわかりません。斑鳩町の稲葉付近にあった離宮でしょうか、竹原井離宮のことでしょうか、それとも飽波宮(斑鳩町・上宮遺跡)の前身でしょうか。因幡宮は、ここ以外にはみられず、行宮ではなく宮と書かれていますので、整備された離宮だったと考えられますが実態は不明です。
称徳天皇は、神護景雲3年(769)、宝亀元年(770)の由義宮行幸の際にも龍田道を利用しています。由義宮は天平神護元年から神護景雲3年までの4年間に造営されたと考えられます。この際には、途中の宿泊施設として飽波宮を利用しています。飽波宮は、斑鳩町法隆寺南3丁目の上宮遺跡と考えられます。これまでの調査で、奈良時代の軒瓦などが出土しているので、その付近に宮があったと考えてまちがいないでしょう。
その行幸の際には、竹原井離宮は利用されていません。そもそも由義宮ならば平城宮から1日でも行幸が可能な距離であり、中間地点となると斑鳩町付近となるので、飽波宮を利用することになったのでしょう。竹原井離宮は不要になったのです。
最近確認された由義寺の塔には、東大寺系、興福寺系、摂津職系、青谷式などさまざまな瓦が使用されていたことがわかっています。それだけ建設を急いでいたのであり、各方面から瓦を供出させることができたのでしょう。由義宮の造営も急いでいたと思われます。それならば、竹原井離宮の建物を由義宮に移築している可能性が考えられないでしょうか。青谷遺跡の回廊状の建物は、一旦解体されたあと掘立柱塀に改築されていることがわかっています。由義宮造営のために建物を解体して移築し、竹原井離宮は利用できない状況になっていたのではないかと思われます。その後、宝亀2年(771)の光仁天皇行幸の際に、竹原井行宮に宿泊したと記されています。この際に、改めて仮設の行宮を造営したのではないでしょうか。竹原井離宮は、龍田道をめぐる歴史の変化をわたしたちに語りかけているようです。
(文責:安村俊史)

竹原井離宮の軒瓦―この瓦が由義宮からまとまって出土するかも?

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