【コラム】龍田古道(11)大坂の陣と龍田古道

2020年6月20日

 平群郡で所領を得た片桐且元が、船で大坂へ米を運ぶために、慶長14年(1609)に亀の瀬の開鑿を行ったようです。しかし十分な開鑿ができず、その後も亀の瀬を船が通行することはできませんでした。開鑿に失敗した且元が、怒って亀岩の亀の首を切り落としたところ、亀の首から血が吹き出したといいます。明治元年(1868)の国分村の文書に、且元が亀の瀬の開鑿を行ったため下流への土砂流出が多くなり、河内の洪水が増加したと書かれています。亀の瀬開鑿が300年近くも語り伝えられていたのです。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、徳川家康は龍田から大坂の住吉へと進みました。住吉へは龍田道を通ったと考えられるのですが、片桐且元が首を切り落とした亀岩のある亀の瀬を通ることを家康が嫌い、立野から対岸の藤井へ船で渡り、山道を越えて国分へ至ったと伝えられています。しかし、国分への山越えの道は険しいため、にわかに信じることはできません。
 また夏の陣では、大和川沿いを進んでくる徳川方を、豊臣方は河内への出口となる国分で迎え撃つという策をとることになりました。人数で劣る豊臣方が大坂城を出て戦うには、この策しかないと考えたのです。ところが徳川方の進軍が早く、豊臣方が到着する前に徳川方はすでに国分に陣を敷いていたことによって、勝負はあっけない結末となりました。
 その際、徳川方の大半が田尻越え(関屋越え)で国分へ向かったようです。その中で、水野勝成配下の堀直寄が亀の瀬越えの龍田道で国分へ向かったと記されています。その際に、亀の瀬越えは物部守屋が通って敗れた縁起の悪い道なので避けるべきだと言われたということです。田尻越えは「古来の吉例」だと記されています。直寄は戦場にのぞむときに何を言っているのかと亀の瀬越えをとったようです。
 伊達政宗家臣の片倉重綱も龍田越えをとったという記録があります。もしかすると、伊達隊はすべて龍田越えをとったのかもしれません。なぜ本隊は迂回路となる田尻越えをとったのでしょうか。家康の逸話とともに、亀の瀬越えが縁起の悪い道と意識されていたことはまちがいないようです。
(文責:安村俊史)

『大和名所図会』の「龍田川」

『大和名所図会』の「龍田川」ー右下方に「かめ石」が描かれている。

令和2年8月23日(日)まで、企画展「龍田古道-あの山を越えれば-」を開催しています。ぜひご来館ください。

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