【コラム】龍田古道(14)亀の瀬の地すべり

2022年2月25日

 亀の瀬は数万年前から地すべりを起こしていたようですが、江戸時代以前に地すべりの記録はみられません。しかし、明治36年(1903)、昭和6年(1931)、昭和42年(1967)と明治以降でも3回発生しているので、それまでも繰り返されていたのでしょう。
 地すべりは、亀の瀬の北にあったドロコロ火山から噴出した溶岩が、二層になって南へ下っていることに原因があります。二度の噴火の境面に風化した粘土層がみられ、地下水を含んだ粘土層がすべり面となっています。さらに左岸には大和川断層があり、溶岩層の裾を大和川が浸食しています。これらが原因となって地すべりが繰り返されてきました。
 明治以降の地すべりのなかで、もっとも大きな地すべりが昭和6年(1931)からの地すべりでした。この地すべりに伴って大和川の河床が9mも隆起し、河道が完全に閉塞してしまいました。そのため王寺町周辺はダム湖のようになり、広い範囲が浸水しました。そのまま放置すれば浸水域がさらに広がり、やがて閉塞する土砂が決壊すると、こんどは大阪平野が浸水することになります。これを防ぐために開鑿工事が進められました。この地すべりは学術的に注目されただけでなく、一日あたり最高2万人という見学者が訪れる観光地となりました。茶店やうどん屋が店を出し、記念の絵はがきも販売されていました。
 大阪鉄道(現JR関西本線)は、明治22年(1889)に柏原・湊町(現JR難波)間が、明治23年(1890)には奈良・王寺間がそれぞれ開通しましたが、柏原・王寺間は大和川右岸を通るルートで亀の瀬の難所を抜けるトンネルが必要でした。トンネル工事は明治25年(1892)に完了し、2月2日にようやく奈良・湊町間が全通をみました。ところが、昭和6年(1931)からの地すべりが亀瀬トンネルを破壊しました。11月29日にトンネルに亀裂が発見され、昭和7年(1932)1月22日に下り線、2月1日には上り線でも運転を休止することになりました。復旧も試みられましたが通行不能となり、トンネルは放棄され線路は大和川対岸へ移されることになりました。その後トンネルの位置もわからなくなっていましたが、平成20年の工事中に再びトンネルの一部が発見され、それが昭和6~7年の地すべりで崩壊した明治25年のトンネルの一部であることが確認されました。
 現在でも地すべりが発生すると、奈良盆地や大阪平野が水没することに変わりはありません。被害額は4.5兆円と想定されています。人々の生活を守るために60年近くに渡って850億円以上の費用を投じて現在も地すべり対策工事が続けられているのです。
(文責:安村俊史)

地すべり絵はがき

地すべり絵はがき「大自然の脅威にも堅固を誇りし亀ノ瀬トンネル西口も遂に大崩落せる惨状」

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