【コラム】龍田古道(13)亀瀬新道の開鑿

2020年7月18日

 柏原市青谷付近から上流の大和川は左岸(南岸)の断崖が川に迫っており、青谷から下流では右岸の岩塊が川に迫っていたため、それぞれ道をつけることができませんでした。そのため龍田道は青谷から上流では右岸、下流では左岸を通っており、青谷で対岸に渡らなければならなりませんでした。奈良時代以前の龍田道もこのルートと考えられ、近世の奈良街道も青谷で渡しを使って対岸へ渡っていたことがわかっています。
 大和川左岸(南岸)を河内から大和へ抜けるには、国分東条から明神山系の稜線近くに登ったうえで藤井(王寺町)へ下るか、国分東条から明神山頂へ登ったうえで畠田(香芝市)に越える送迎道をとるかのどちらかでした。どちらも標高差のある狭い道で、馬や荷車を使うことはできなかったと思われます。
 そこで明治になると、国分から大和川の左岸をそのまま進み、大和川に沿って大和の藤井そして久度(王寺町)まで、そこで大和川を渡って勢野(三郷町)まで、亀瀬新道という道路が開かれることになりました。これが、現在の国道25号の前身です。川沿いならば起伏もなく、荷車も楽に通行できます。しかし、それは斜面が大和川へと落ち込む亀の瀬付近の岩盤を切り開く難工事でした。
 国分村の堅山家文書に、工事の内容を記した「亀瀬新街道営繕仕様目論見帳」や工事図面である「和州境界道図面」などが残っており、工事のあらましがわかります。明治5年4月に地元から政府に嘆願が出され、許可がおりたのち明治5年8月に着工されました。工事は国分村や藤井村の人たちが協力し、1年7か月をかけて明治7年3月28日に開通させました。
 長さ108町(11.8km)のうち、60町余り(約6.6km)は開鑿が必要でした。とりわけ国分東条から藤井の間の開鑿は困難でした。岩盤は火薬を使って爆破しながら切り開いていったのです。
 この工事によって幅1丈3尺(約4m)のほぼ平坦な道路が完成しました。これで、大阪・奈良間の通行は格段に便利になりました。これが大和川を運行していた剣先船、魚梁船の衰退に拍車をかけ、長年続いてきた舟運は、鉄道の開通によって終えられることになったのです。
(文責:安村俊史)

「和洲境界図面」(堅山家文書)

「和洲境界図面」(堅山家文書)-工事箇所が白抜きで記入されている。

令和2年8月23日(日)まで、企画展「龍田古道-あの山を越えれば-」を開催しています。ぜひご来館ください。

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