【コラム】龍田古道(5)河内大橋と駅家

2022年2月25日

 『万葉集』巻9―1742・1743に、高橋虫麻呂の「河内大橋を独り行く娘子を見る歌」があります。「しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ(後略)」。この歌から、河内大橋という丹塗りの橋があったことがわかります。虫麻呂は藤原宇合の従者で、宇合は聖武天皇のときの知造難波宮司でした。難波宮を造営していた730年前後に、虫麻呂はたびたび平城宮と難波宮のあいだを往来していたのです。虫麻呂が見た河内大橋とは、当時の行幸路が大和川を渡る地に架けられていた橋と推定できます。
 また、和歌山県伊都郡花園村(現かつらぎ村)の医王寺に所蔵されていた大般若経の識語(写経が行われた経緯などを記す文)によると、河東の化主と呼ばれた万福法師ができなかった橋の改修を、花影禅師が引き継いで天平勝宝6年(754)に完成したということです。この大般若経は、家原邑(里)の知識の人々によって写経されたものです。知識とは、仏教を信仰し、自らの財産を寄付して造寺・造仏などを行う行為や人々のことです。家原邑は、河内国大県郡の家原寺(安堂廃寺)周辺と想定され、この橋とは河内大橋のことでしょう。江戸時代に大和川が付け替えられた地点付近に架けられていた橋だったと考えられます。橋の改修が知識の財力や労力によってなされたのならば、架橋も知識によると考えられます。河内大橋とは、平城宮から難波宮へ至る行幸路上に設けられた、大和川を渡る橋だったのです。そしてその橋は知識によって架橋、改修された橋だったのです。
 難波宮の造営に伴って、平城宮と難波宮のあいだに駅路も整備されたようです。駅制とは、目的地までの途中に馬を常備する駅家を置いて、緊急時などに馬を乗り継いで情報を伝達する制度です。そのための道路を駅路と呼びます。
 『日本霊異記』に、奈良時代の大和国に平群駅家があったと書かれています。しかし、平安時代には廃止されていました。平群駅家は、平群郡の平隆寺付近にあったのではないかと考えられます。平安時代の『延喜式』には、南海道の駅として河内に樟葉、槻本、津積の3駅があったと記されています。南海道は、河内では後の東高野街道に相当します。津積駅家は柏原市安堂町にあったと考えられ、津積駅家が奈良時代にすでにあり、河内大橋があったならば、馬に乗ったまま平城宮から難波宮まで行くことができます。平安時代になると、この駅路は不要となり、平群駅家は廃され、津積駅家は南海道の駅家として利用されるようになったのでしょう。
(文責:安村俊史)

河内大橋復元模型(市民歴史クラブ製作)

河内大橋復元模型(市民歴史クラブ製作)

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