【コラム】龍田古道(3)奈良時代の龍田古道

2020年4月24日

 710年に藤原京から奈良盆地北部の平城京に遷都されると、再び龍田道が脚光を浴びることになりました。奈良時代には、天皇がたびたび難波宮に行幸するようになりますが、その際に利用されたのが龍田道でした。平城宮から難波宮へは生駒の暗峠を越えるのが最短距離になりますが、傾斜が強く輿や馬を使うことはできません。そのため、遠回りになりますが、高低差の小さい龍田道、渋河道のルートが利用されたのです。奈良時代に龍田道を利用したと推定される行幸は、元正天皇4回(太上天皇としての1回を含む)、聖武天皇6回、孝謙天皇2回、称徳天皇3回、光仁天皇1回、計16回となります。
 奈良時代の初めには、平城京の朱雀大路を南へ下り、斑鳩からは飛鳥時代とほぼ同じルートをたどったと考えられます。そのルートは、青谷で大和川を左岸に渡っていました。ところが、その後は青谷から山中に入り、浄徳谷と呼ばれる谷を北西へ進み、津越と呼ばれる切通しを通って太平寺と安堂のあいだに下るルートに変更されたと考えられます。安堂付近で大和川を渡り、そこからはそれまでと同様に渋河道を利用しました。
 平城から難波への中間地点には天皇の宿泊のために竹原井離宮が造営され、大和川には河内大橋と呼ばれる橋が架けられました。さらに駅家が設けられ、平城と難波を馬で結ぶ駅路が整備されました。生駒山地の西麓には智識寺を始めとする河内六寺が甍を並べ、聖武天皇が智識寺の蘆舎那仏を礼拝したことが東大寺の大仏造立の契機となったことはよく知られています。
 聖武天皇は、神亀3年(726)10月に難波宮の造営に着手し、天平4年(732)3月ごろに一応完成していたと考えられます。聖武天皇の難波宮造営に伴って、平城宮と難波宮の往来が頻繁になると予想されました。そのために瓦葺きの離宮を設け、その往来のための道路を整備したのでしょう。龍田古道の整備と難波宮造営は一連の事業だったと考えられます。
(文責:安村俊史)

奈良時代の平城宮から難波宮への行幸路

奈良時代の平城宮から難波宮への行幸路

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