大和川つけかえと中甚兵衛~10~

2022年2月25日

大和川つけかえと中甚兵衛

 ここまで、大和川付け替えと中甚兵衛の関係について考えてきました。一般に紹介されているように、甚兵衛が付け替え工事を行ったのでもなく、河内の農民をまとめあげて幕府から付け替えを勝ち取ったわけでもないことが理解いただけたと思います。甚兵衛は、衰退していく付け替え運動の中心人物であったことは確かですが、河内の農民をまとめるどころか、人々は甚兵衛からどんどん離れていったようです。それは、甚兵衛の独断的な行動にも原因があったのかもしれません。貞享4年(1687)8月の嘆願書には、偽の印を押していました。人々の協力を得られなかったからでしょう。

 また、唯一残る付け替え嘆願書は、文書の末尾が裁断されています。日付や差出人などが書かれていたはずの、もっとも重要な部分が意図的に裁断されているのです。理由はわかりませんが、甚兵衛らが十分に村々の了解を得ることなく提出したため、反発を買って差出人などがわからないようにしたうえで保存することになったのではないでしょうか。

 また、付け替えに関連する文書は、付け替えに反対していた村々にはかなり残されていますが、付け替え運動に参加していた村々では、これまでのところまったく確認されていません。付け替えのような重要なできごとは、村の庄屋が控えをとって残しているはずです。どこかで新しい史料が発見されることを期待しますが、現在のところ中家文書以外にはないのです。もしかすると、甚兵衛が独断ですすめていたため、運動に参加していたはずの村々が控えをつくることもなかったのかもしれません。

 運動に参加する村々は減る一方で、甚兵衛らが多くの農民から相手にされなくなっていたことが窺えます。しかし、甚兵衛らがあきらめずに続けていた運動が、付け替えに結びついたことも間違いないでしょう。中甚兵衛は、その点で評価されるべきだと思います。

 本当の意味で付け替えに重要な役割を果たした人物は、堤奉行の万年長十郎でしょう。彼は財政立て直しのために新田開発を進めており、大和川付け替え工事を利益をもたらす工事として実施したのも彼の手腕だと思います。甚兵衛もたびたび意見を求められていました。付け替え後の新田開発の状況を考えると、鴻池善右衛門も意見を求められていたのでしょう。そして、甚兵衛や鴻池をうまく利用して大和川付け替え工事を進めたのでしょう。大和川付け替えの実態は、まだまだ闇の中なのです。

 コラムは中九兵衛『甚兵衛と大和川』(大阪書籍・2004年)を参考にさせていただきました。史料を寄贈していただいたこととともに、中九兵衛氏に感謝したいと思います。

(文責:安村俊史)

大和川付替摂河絵図
写真:「大和川付替摂河絵図」

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