大和川つけかえと中甚兵衛~6~

2022年2月25日

付け替え後の新田開発

 旧大和川の一つ玉櫛川は、菱江川と吉田川に分かれ、東を北へ流れる吉田川は、その先で深野池に流れ込んでいました。大和川の付け替え後、吉田川のほぼ全域が川中新田として開発されました。川中新田を開発したのは、大坂の町人・河内屋五郎平と甚兵衛の息子の九兵衛でした。宝永2年(1705)5月、五郎平らは688両余りの地代金を納めて、開発に着手しています。河内屋五郎平は、甚兵衛の娘婿でした。

 深野池の一部にあたる新田に中村新田という新田があります。この新田について、中甚兵衛が「深野川筋氷野村領より諸福村領迄新田地代金」として220両を納めたという宝永2年5月の史料があり、中村新田を最初に開発したのは甚兵衛だったと考えられます。

 新開池は新田開発され、鴻池新田となりました。旧大和川筋で、もっとも規模の大きい新田です。この鴻池新田は鴻池家が落札したと思っている方が多いと思いますが、新田開発の権利を落札したのは、中垣内村の長兵衛と大坂京橋の大和屋六兵衛でした。その後、割増金を払って鴻池が大半を買い取りましたが、残りの新田の一部が中甚兵衛に譲られていました。甚兵衛はさらにその一部を河内屋源七と今津村の市兵衛に譲り、残りは中九兵衛と河内屋五郎平の名義で中新田になりました。

 鴻池新田の開発に伴って、不可解な点が数多く残されています。どうして支払い能力のない長兵衛と大和屋六兵衛の落札を幕府が認めたのか。その後、6,500両余りの割増金を払って鴻池家が買い取っていますが、どうして最初から入札に参加しなかったのでしょうか。落札した長兵衛は甚兵衛の妻の実家の人物、大和屋はのちに甚兵衛の孫の九兵衛重正の妻の実家となります。この二人の人物は甚兵衛と親しい関係にあったようです。

 このころ、原則として町人の新田開発は認められていませんでした。旧大和川筋の新田開発には町人も多数参加していますが、鴻池は表立って新田落札者として名が出るのをはばかったのでしょうか。そのため、この二人に落札させたのでしょうか。それを幕府が認めているということは、幕府、鴻池、甚兵衛らが相談のうえでの落札ということだったのでしょうか。謎は尽きません。

 宝永5年(1708)に、旧川筋に開かれた新田の最初の検地が行われました。この際には甚兵衛の名はみえず、川中新田と中新田の請負者として河内屋五郎平と中九兵衛の二人の名がみえます。甚兵衛は若い二人に任せて隠居したと考えていいのでしょう。

(文責:安村俊史)

新開池絵図
写真:新開池絵図

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