大和川つけかえと中甚兵衛~4~

2022年2月25日

孤立する甚兵衛

 貞享4年(1687)の1月ごろに出されたと考えられる「乍恐御訴訟」が、現存する唯一の付け替え嘆願書になります。そこには、「先年より奉願候、大和川之流、船橋村前より堺之北之方海迄、川違被為成被下候得ハ、水所拾五万石余之百姓、永々迄之御助ニ罷成候ニ付、乍恐川違御願申上候御事」と書かれています。川違(かわたがえ)とは付け替えのことです。大和川を付け替えていただければ、石高合わせて15万石余りの村々の百姓が助かりますと書かれています。ほぼ同じ文章の文書がもう1点ありますが、それは、この文書の下書きと考えられるので、付け替え嘆願書はこの1通と考えていいでしょう。

 このあと、同じ貞享4年3月7日に出された嘆願書では、付け替えではなく、大和川の流れがよくなるような治水工事の嘆願となっています。しかも、7万石余の百姓が助かると書かれています。どうやら、先の付け替え嘆願書に対して、幕府から付け替えはしないという厳しい答えが返ってきたようです。それで付け替えをあきらめ、運動に参加する村も半分に減ってしまったと考えられます。

 これ以降、貞享4年4月、8月、元禄2年(1689)12月の嘆願書が残っていますが、いずれも治水工事を求める嘆願書です。つまり、付け替えの嘆願は貞享4年1月ごろに出されたものが最後で、それ以降は付け替えをあきらめていたことがわかります。しかも元禄2年には3万石の百姓となり、付け替え運動が急速に衰退していたことがわかります。

 貞享4年4月と8月の治水工事の嘆願書は、河内、若江、讃良、茨田、高安の5郡から出されています。4月の河内郡のところには、郡を代表して今米村の庄屋であった甚兵衛の印が押されています。しかし、8月の嘆願書では、茨田郡に甚兵衛の印が押されています。また、8月の河内郡には、今米村の年寄太右衛門の印が押されています。それぞれ、茨田郡と河内郡のいずれかの村の庄屋が印を押すべきところですが、甚兵衛と太右衛門の印が押されているのです。茨田郡と河内郡に印を押してくれる村がなかったと考えられます。どうやら協力してもらえない郡の印を、甚兵衛らが勝手に押印していたようです。

 このように、甚兵衛たちの運動はどんどん小さくなり、協力してくれる村もほとんどなくなっていたようです。甚兵衛たちは孤立し、苦しかったことでしょう。それでも、あきらめずに運動を続けていたようです。そのようななか、急に幕府は付け替えの方針を打ち出したようです。

(文責:安村俊史)

「春日流社」甚兵衛らの印
写真a:「春日流社」甚兵衛らの印

貞享4年4月の嘆願書
写真b:貞享4年4月の嘆願書

貞享4年8月の嘆願書
写真c:貞享4年8月の嘆願書

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