大和川つけかえと中甚兵衛~3~

2019年9月8日

つけかえ運動への参加

 万治3年(1660)に、幕府によって初めての大和川付け替え検分が行われました。前回のコラムで、大和川の付け替え運動は万治2年(1659)から始まったと考えましたが、その翌年に検分があったと考えるとうまく理解できます。その後、寛文5年(1665)、寛文11年(1671)、延宝4年(1676)、天和3年(1683)と計5回の付け替え検分が確認でき、6回目が元禄16年(1703)の付け替え決定の検分でした。それまでの5回の検分は、いずれも付け替えの必要なしという結論に至っていたのです。幕府が検分を実施する直前には、付け替えを求める嘆願書が提出されていたはずです。この間、付け替え運動が継続していたということになります。

 それでは、中甚兵衛はいつごろから付け替え運動に参加していたのでしょうか。一般には、最初から運動の中心人物であったとされますが、実はこれもよくわかっていません。   

 城蓮寺村の「新大和川堀割由来書上帳」には、付け替え運動の中心人物として、芝村の三郎左衛門と吉田村の次郎兵衛の名が記され、そこには甚兵衛の名はみえません。この二人は、芝村の曽根三郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛と考えられ、どちらも甚兵衛と歳も近く、近くの村の者なので、甚兵衛も当初から運動に参加していたことは考えられますが、確認はできません。そのころ、甚兵衛は江戸にいました。

 甚兵衛が残した大和川付け替え関連の史料のなかで、最も年代の遡る史料は、延宝3年(1675)の「古大和川附換前水害下調図(堤防比較調査図)」ですが、この史料は後世の写しと考えられます。それ以外では、貞享4年(1687)の付け替え嘆願書や治水工事の嘆願書になり、これ以降の史料は多数みられます。天和3年(1683)の検分の前にも付け替え嘆願書が出されているはずですが、中家には残っていないことから考えると、甚兵衛が付け替え運動に主体的に関わるようになったのは、天和3年から貞享4年の間のことではないかと考えられます。この間に、河村瑞賢の淀川下流の治水工事が行われています。この瑞賢による工事の効果はあまりなく、依然として大和川流域では洪水が続いていました。このような現状に対する反発から、甚兵衛は付け替え運動の中心人物となっていったのではないでしょうか。

(文責:安村俊史)

貞享4年の「乍恐御訴訟」
写真:貞享4年の付け替え嘆願書「乍恐御訴訟」

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令和元年9月10日(火)から12月8日(日)まで、秋季企画展「大和川つけかえと中甚兵衛」を開催しています。どうぞご覧ください。

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