大和川つけかえと中甚兵衛~1~

2022年2月25日

中甚兵衛とは?

  中甚兵衛は河内国河内郡今米村(現在の東大阪市今米1丁目)の生まれで、今米村の庄屋を務めながら、大和川の付け替え運動を中心となって進めた人物の一人です。大和川付け替えについては、大阪府内の小学4年生が時間をかけて学習しています。ところが、甚兵衛については誤解も多く、さまざまな問題があります。甚兵衛について語ることができる史料は少ないのですが、わずかに残された史料から適切に評価してみたいと思います。

 まず、甚兵衛は今米村にある川中家の人であったと書かれたものがありますが、それを示す史料はありません。史料からは、大和川付け替え後に旧吉田川筋に開かれた新田を川中新田といい、川中新田を中甚兵衛の息子の九兵衛とともに開発した河内屋五郎平が、のちに川中を名乗るようになったと考えられます。甚兵衛は、庄屋とはいえ百姓なので、普段は姓を名乗ることはありませんが、甚兵衛よりも以前から中家であったようです。

 また、中甚兵衛が私財を投げ打って付け替え工事を行ったという話もありますが、これもまったくでたらめです。工事を行ったのは幕府です。百姓が大和川付け替えのような大工事をできるはずがありません。

 甚兵衛を中心に付け替え運動が盛り上がり、最後には付け替えを渋る幕府も認めざるを得なくなったと一般に言われていますが、これも間違いです。付け替えを求める運動は、付け替えから17年前に終わっており、大和川の水の流れを良くする治水工事を求める運動へと変わっていました。しかも、運動に参加する村は、2年ほどのあいだに5分の1くらいになり、付け替え直前には7分の1程度にまで減っていたことがわかっています。

 つまり、付け替え運動が幕府を動かしたのではなく、付け替え運動が終息するなか、幕府の方針で付け替えられることになったのです。中甚兵衛は、その衰退していく運動の中心人物でした。そして、知識や見分の広さが評価されたのか、普請御用(ふしんごよう)として付け替え工事に参加することになりました。

 中甚兵衛は百姓たちのリーダーであったのではなく、ヒーローでもなかったのです。衰え行く運動を必死になって続けていた人物だったのです。この運動の継続が付け替え工事につながったことは間違いありません。甚兵衛らの運動がなかったら、付け替え工事は実現していなかったかもしれません。甚兵衛はそのように評価されるべき人物であり、決してヒーローのように扱うべきではないと思います。

(文責:安村俊史)

つけかえ前の大和川
図:つけかえ前の大和川

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