田辺廃寺

2019年11月17日

 田辺廃寺は現在の柏原市田辺1丁目にある春日神社を中心に広がる古代寺院跡です。河内国安宿(あすかべ)郡を本貫とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が建立した氏寺と考えられています。7世紀末から8世紀前半にかけて堂塔が整備されました。

 昭和46年(1971)の発掘調査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、伽藍配置は双塔式の薬師寺式伽藍配置であることが判明しています。

田辺廃寺 伽藍配置図

田辺廃寺復元イメージ
田辺廃寺 復元イメージ(柏原市市民歴史クラブ作製)

 金堂基壇と西塔は瓦積み、東塔は塼(せん・レンガ状の焼物)積み基壇で、東西両塔ともに三重塔と推定されています。南大門は柱間3間×2間の八脚門です。堂塔を囲む回廊は半町(約55m)四方、寺地は東西1町(約110m)、南北1町以上と推定されています。金堂・両塔の礎石は現位置に残されていますが、講堂は削平され、位置は確認されていません。僧房、食堂なども不明です。これらの堂塔は平安時代前期に火災にあい、その後金堂のみが再建されて室町時代まで残っていたとみられています。寺地南半は広い空間地となり、現在の池泉、神祠(しんし)も当時の姿を残すものと推定されています。

※基壇…敷地面より一段高くつくった基礎(壇)のこと。

 この田辺廃寺は昭和50年に国史跡に指定されました。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの出土遺物も境内の収蔵庫に保管されています。

・史跡 田辺廃寺について(→『柏原市の文化財・田辺廃寺跡』へ)
・田辺遺跡について(→『5世紀の古墳・田辺遺跡』へ)

田辺廃寺 西塔の礎石
西塔の礎石現状

春日神社
 いつ頃成立した神社であるか、定かなことはわかっていませんが、藤原不比等を育てた田辺史氏が建てた田辺廃寺の境内に藤原氏の氏神である春日神社が祀られているのは偶然とは思えません。

春日神社
春日神社

田辺瓦窯
 田辺廃寺の北東にある田辺池の北岸に、かつて2基の瓦窯がありました。この瓦窯の瓦は河内国分寺跡から出土する瓦と同じで、河内国分寺の瓦の一部がここで焼かれたことがわかっています。残念ながら、瓦窯は調査が実施されないままつぶされてしまいました。

田辺古墳群・火葬墓群
 田辺廃寺の東の丘陵に、7世紀の小規模な古墳19基が集まった古墳群があり、その西側から2基以上の8世紀の火葬墓が発見されています。古墳の終わりから火葬墓の出現にかけての遺跡として注目されるだけでなく、火葬墓に使われていた瓦や塼が、田辺廃寺と同じであることから、田辺史氏の墓地と考えられる点でも重要です。火葬墓からは、和同開珎も出土しています。
・田辺古墳群(→『終末期群集墳・田辺古墳群へ』)
・田辺火葬墓群(→『火葬墓・田辺古墓群へ』)

創建時の瓦

 田辺廃寺創建時に用いられた線鋸歯文縁素弁八葉(せんきょしもんえん そべんはちよう)蓮華文軒丸瓦は、偏行忍冬唐草文(へんこうにんとうからくさもん)軒平瓦とセットになることから、藤沢一夫氏によって7世紀末の藤原宮造営期以降に位置づけられています。これらは金堂、西塔から多く出土しており、周辺の五十村(いむら)廃寺・原山廃寺・円明廃寺でも同時期、あるいは先行する時期に作られ、安宿郡という極めて小さな地域で利用されたと考えられています。

線鋸歯文縁素弁八葉蓮華文軒丸瓦
田辺廃寺平城宮式軒平瓦
上:線鋸歯文縁素弁八葉蓮華文軒丸瓦
下:偏行忍冬唐草文軒平瓦(ともに所蔵:春日神社)

 ところが同型式の軒瓦が、遠く香川県の2つの寺院からも発見されています。軒瓦文様の類似性を通して、その背景(建立氏族のつながりや、寺院造営にかかわる工人の移動など)、経路を考えさせられる資料です。

 また奈良時代の平城宮式軒丸瓦のほか、東塔では創建瓦の文様に類似した軒丸瓦も多く見つかっています。おそらく8世紀中頃までに金堂→西塔→東塔の順で整備されたのでしょう。

田辺廃寺平城宮式軒丸瓦
平城宮式の複弁蓮華文軒丸瓦(所蔵:春日神社)

田辺氏

 田辺氏の本拠は河内国安宿(あすかべ)郡、現在の柏原市田辺付近で間違いないようですが、摂津国住吉郡、現在の大阪市東住吉区田辺付近にも居住していました。北田辺には田辺廃寺等の遺跡もみられます。藤原氏の繁栄の基礎を築いた藤原不比等を育て、国の基本的な法として701年に制定された大宝律令の編纂にかかわるなど、一族は中央で活躍しました。

 田辺氏には、「史(ふひと)」という姓(かばね・古代の称号)が与えられています。「史」はフミヒト(書人)から転じたもので、大和朝廷の政治組織の中で代々文筆・記録を職務とした家柄の人々をさす呼称が制度として定着し、田辺氏がその職にあたっていたことを示しています。渡来系である田辺氏は、漢文の解読や中国・朝鮮半島の法令や記録などの知識をいかして文章の作成、国の政治・経済・文化などの紹介や解説をしていたのでしょう。

 古代の氏族の系譜を記した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、「田辺史(たなべのふひと)」がみられます。

新撰姓氏録

 平安時代初期の815年(弘仁6年)に編纂された古代氏族名鑑。京(左京・右京)および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを掲載している。

・皇別
神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族。さらに、皇親(「真人」の姓(カバネ)をもつ氏族)とそれ以外の姓をもつ氏族に分かれる。

・神別
神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族。神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫を「天孫」、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」として3分類している。

・諸蕃
渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。さらに「百済」「高麗」(高句麗を指す)「新羅」「加羅」「漢」に5分類されている。また、これらのどこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。

  右京皇別の田辺史は、「豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の四世孫、大荒田別命(おおあらたわけのみこと)の後なり。」とあり、右京諸藩の田辺史は、「漢王の後、知惣(ちそう)自り出づ。」とあります。河内を本貫とする系流以外にも、この漢王の後裔を称する知摠系の一流が知られています。

 また、左京皇別の上毛野朝臣(かみつけぬのあそみ)の項に、「百尊(はくそん)の男、徳尊(とくそん)の孫、斯羅(しら)が、皇極天皇の御世に河内の山下の田を賜い、文書を解したので田辺史となり、天平勝宝2年(750)に改めて上毛野君の姓を賜り、弘仁元年(810)朝臣の姓を賜った。」とあります。

 『日本書紀私記』弘仁私記序の諸藩雑姓記には、「田辺史、上毛野公らの祖である思須美(しすみ)・和徳(わとく)の両人が、仁徳朝に百済から帰化し、自分らの祖は貴国将軍上野公竹合(かみつけぬのきみたけあい)なりと言った。」とあります。

 これらの記録がどこまで信頼できるかという問題がありますが、田辺氏が渡来系氏族であることは間違いありません。漢王ならば中国につながることになりますが、おそらく直接の系譜は百済と考えられます。

※上毛野氏…古代に現・群馬上毛野を拠点とした豪族。「毛野」は現在の北関東地域を指し、上毛野は群馬県、下毛野は栃木県に相当する。古代において有数の勢力であったと考えられる。

※日本書紀私記・弘仁私記…平安時代に『日本書紀』について7回の講書(書物の内容の講義)が行われたとされ、『日本書紀私記』(にほんしょきしき)は、その内容をまとめた記録。 『日本書紀私記』は種々のものが作成されたと考えられ、現存する甲乙丙丁本の四種のうち、甲本を『弘仁私記』と呼ぶ。

※竹合・竹葉瀬(たかはせ)…上毛野君の祖で、仁徳天皇(第16代)の時に朝鮮へ派遣されたという武将。豊城入彦命(第10代崇神天皇皇子)五世孫。

史料に登場する田辺氏

田辺史伯孫
  田辺氏の祖。『日本書紀』の「赤馬伝説」に登場します(後述)。

・田辺史大隅
 山背国山科に住み、藤原鎌足の子・不比等を養育していたことが、『藤氏大祖伝』にあります。不比等の名は、田辺史の「史」に由来するといいます。おそらく、田辺氏は鎌足のもとで文筆活動を行っており、大津宮遷都に伴ってその一部が山科に移ったのでしょう。

・田辺史小隅(おすみ)
 壬申の乱(672)で近江方の別働隊長として戦いましたが、敗北しました。鎌足に仕えてきた田辺氏としては、当然だったのでしょう。小隅は大隅と同一人物と考える説もあります。別人としても、近い関係にある人物でしょう。
 これによって、田辺氏はしばらく不遇の時期を送ったと考えられますが、不比等の活躍によって、復権するのは早かったようです。田辺史百枝(ももえ)、首名(おとびな)が『大宝律令』の制定に従事し、田辺廃寺の創建も7世紀末ごろと考えられます。

・田辺史真人(まひと)
 造東大寺判官となり、このころ写経書の経師として多数の田辺氏が参加しています。8世紀中ごろが田辺氏の氏族としてのピークだったかもしれません。

・田辺史真立など
 摂津国住吉郡田辺郷戸主としてその名前が掲載されています。

・田辺史難波ら
 『続日本紀』天平勝宝2年(750)に、「中衛員外少将五位下田辺史難波らが上毛野君姓を賜った。」とあります。この前後に、田辺氏の複数の人物が古代の名族・上毛野に改氏姓しています。『新撰姓氏録』の上毛野朝臣の項の記述も、これによるものです。

 田辺史難波が神亀元年(724)に征夷軍として東国で活躍した際に、上毛野氏と交流があったことが改姓のきっかけではないかとされています。田辺氏の一部が、渡来系としての田辺氏よりも、伝統的な上毛野氏として生きる道を選んだということでしょう。伯孫を「努賀君(つぬかのきみ)の男、百尊」として、赤馬伝説とほぼ同じ内容が『新撰姓氏録』に載せられています。

 しかし、平安時代になると田辺氏はほとんど記録に見られなくなります。田辺廃寺も、平安時代には小さな堂を残して廃寺となったようです。

 現在、田辺廃寺以外に田辺氏に関わる遺跡として、田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)を祀っているとされる柏原市玉手町の伯太彦(はかたひこ)神社・円明町の伯太姫(はかたひめ)神社が指摘されています。ただ両神社は、田辺廃寺からは1キロメートル余り西の玉手山丘陵西斜面にあり、この地まで田辺氏の勢力範囲であったと考えるのは疑問です。

渡来の時期

 『弘仁私記』には「仁徳朝(の時)に帰化した」とあり、『日本書紀』の赤馬伝説(後述)は雄略朝の話のため、5世紀中ごろには渡来していたことになりますが、田辺氏の渡来はもう少し遅いと考えられます。記録に最初にみえる田辺氏は、『日本書紀』白雉5年(654)に判官(じょう)として遣唐使に加わった田辺史鳥です。すると『新撰姓氏録』左京皇別の上毛野朝臣の項にみられる「皇極天皇(在位:642~645年)の御世に」が現実味を帯びてきます。

 なお田辺遺跡や田辺古墳群の状況から、6世紀後半にこの地に定着した集団が、7世紀中ごろに遺跡南部へと勢力を拡大したと考えられます。遺跡のあり方からも7世紀中ごろに飛躍的な変化がみられることは、文献史料に合致します。

・田辺遺跡について(→『5世紀の古墳・田辺遺跡』へ)
・田辺古墳群について(→『終末期群集墳・田辺古墳群』へ)

赤馬伝説

 『日本書紀』雄略天皇9年秋7月に、田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)をめぐる話が記されています。これが「赤馬伝説」と呼ばれる話です。

 秋七月の壬辰(じんしん)の朔日(つきたち)に、河内国(かわちのくに)が言(まを)さく、「飛鳥戸郡の人田辺史伯孫が女(娘)は、古市郡の人書首加竜(ふみのおびとかりょう)が妻(め)なり。

伯孫、女の児(こ)産めりと聞き、往(ゆ)きて聟(むこ)の家を賀(ことほ)ぎて、月夜(つくよ)に還り、蓬蔂丘(いちびこのをか)の誉田陵(ほむたのみささぎ)の下(もと)に、蓬蔂、此(ここ)には伊至寐姑(いちびこ)と云ふ。

赤駿(あかうま)に騎(の)れる者(ひと)に逢ふ。

其の馬、時に濩略(くわりゃく)して竜のごとく翥(と)び、欻(たちまち)に聳擢(しょうたく)して鴻(おおとり)のごとく驚く。異体は蜂のごとく生り、殊相(しゅさう)は逸として発(た)てり。

伯孫、就きて視て、心に欲す。乃(すなは)ち乗れる驄馬(まだらうま)に鞭うちて、頭を斉(ひと)しくして轡(うまのくら)を並ぶ。爾(しか)して乃ち、赤駿(あかうま)、超攄(てうちょ)して埃塵(あいぢん)を絶ち、駆騖(くぶ)して滅没するよりも迅(はや)し。

是(ここ)に驄馬(まだらうま)、後(おく)れて怠足(おそく)して、復追(またお)ふべからず。

其の駿(とまうま)に乗れる者、伯孫が所欲(ねがひ)を知り、仍(よ)りて停めて馬を換へ、相辞(あひさ)りて取別(わか)れぬ。伯孫、駿を得て甚だ歓び、驟(は)せて厩に入り、鞍を解きて馬に秣(まぐさか)ひて眠(ね)たり。其の明旦(くるつあした)に、赤駿、変りて土馬(はにま)に為(な)れり。

伯孫、心に異(あや)しびて、還(かへ)りて誉田陵に覓むるに、乃ち驄馬の土馬の間に在るを見る。取りて、代(か)へて換(かは)りし土馬を置く」とまをす。

現代語訳

 秋七月の一日に、河内国が申し上げるには、「飛鳥戸郡の人田辺史伯孫の娘は、古市郡の人書首加竜の妻です。伯孫は、娘が子を産んだと聞いて、婿の家へ行ってお祝いし、月夜に帰りました。(その途中、)蓬蔂丘の誉田陵の下で、赤馬に乗った人と逢いました。その馬は、時に竜のように身をくねらせて跳びはね、突如として鴻のように驚きます。その異様な体格は峰のようにそびえ、特異な姿は見たこともないようなものです。伯孫は近寄ってこの馬を見て、なんとか自分のものにしたいと思いました。そこで、自分の乗っていた葦毛の馬に鞭を当て、赤馬と頭をそろえて轡を並べ(競争することにし)ました。しかし、赤馬は跳び上がるや埃も残さず、駆け巡るさまは一瞬にして見えなくなるよりも速いものでした。伯孫の葦毛の馬は足が遅く後れて、とても追い付くことはできませんでした。その馬に乗っていた者は、伯孫の願いを知ると、立ち止まって馬を交換し、挨拶をして別れました。伯孫はこの馬を手に入れてたいそう喜び、赤馬を走らせて家に帰り、厩に入れました。そして、鞍をおろして馬に秣を与えて眠りました。ところがその翌朝、赤馬は埴輪の馬に変わっていました。伯孫は不思議に思って、誉田陵のところまで戻ったところ、(自分の)葦毛の馬が埴輪の馬の間にいるのをみつけました。そこで、馬を取り換えて代わりにあの埴輪の馬をおいてきました。」ということです。

雄略天皇の時代

 この話は雄略天皇の時のこととして記されていますが、『日本書紀』は養老4年(720)に舎人親王によって編修され、実際に書かれたのは奈良時代の初めということになります。雄略の没年は『日本書紀』は479年、『古事記』では489年とあり、仮に479年没とすると在位は23年、雄略9年は465年ということになり、5世紀後半ごろの話と考えられます。

 雄略天皇のころにはまだ天皇という用語はなく、倭(わ)の五王の一人「武(ぶ)」と考えられています。倭の五王とは宋の歴史書『宋書』に記録のある、讃、珍、済、興、武の五人の倭国の王のことです。

 埼玉県埼玉稲荷山(さきたまいなりやま)古墳の鉄剣、熊本県江田船山(えたふなやま)古墳の鉄刀の象嵌(ぞうがん)に見られる王が「ワカタケル」すなわち雄略を指すと考えられることや、『古事記』『日本書紀』の記述などから、かなり強い権力をもった専制的な大王であったと考えられます。また、大王(おおきみ)という称号を最初に称した王だったとも考えられています。

 倭の五王の時代は古墳時代の中期にあたり、銅鏡や腕飾類など祭祀的な副葬品が多かった前期と異なり、古市古墳群や百舌鳥古墳群など巨大な古墳が次々と築かれただけでなく、鉄刀・剣・鏃などの武器や甲冑などの武具が大量に副葬されるようになりました。祭祀から武力によって国を治める時代へと変化したことが、副葬品から読み取れます。

 この時代には倭国としての統治がかなり浸透し、朝鮮半島から新しい技術や知識が次々と伝えられるとともに、多数の渡来人が海を渡ってきたと考えられます。古墳時代中期社会の完成、もしくは古墳時代後期の開始とも位置づけられる時代です。

赤馬伝説をたどる

 田辺氏は百済系の渡来系氏族と考えられ、田辺史伯孫はその祖とされています。その伯孫の娘が古市郡の書首加竜(ふみのおびとかりょう)という人物のもとに嫁ぎ、子を出産したのでお祝いに出かけたといいます。「古市郡」は現在の羽曳野市古市を中心に、石川左岸の南北に長い範囲と考えられています。

 書首は、西文氏(かわちのふみし)と呼ばれた河内の有力な渡来系氏族です。ただし、加竜という人物はここ以外にはみられません。

 七月一日、今の暦では八月上旬と考えられ、夏の一番暑いころに河内国から申し出があったとして、話が始まります。「飛鳥戸郡(あすかべのこおり)」は現在の柏原市南部から羽曳野市駒ヶ谷・飛鳥周辺、大和川より南、石川より東の範囲に相当します。「郡(こおり)」は710年に制定された大宝令に始まる古代の行政区画で、それまでは「評(こおり)」が使用されていました。その「評」も7世紀中ごろの設置と考えられ、雄略のころには存在せず、この話は『日本書紀』が編纂された当時の知識で書かれているとわかります。

※大宝令・大宝律令…唐の律令を参考に、日本史上初めて律(現在の刑法)と令(現代の行政法および民法)が揃って成立した律令である。これにより天皇中心の官僚機構を骨格とした本格的な中央集権統治体制が成立した。

安宿郡範囲図
安宿郡の範囲図

 お祝いの食事をしてすっかり夜になり、帰りに蓬蔂丘の誉田陵の下で例の赤馬に出会いました。「蓬蔂」「イチビコ」はイチゴの古名で、イチゴの実る丘、もしくは地名で、現在の羽曳野市誉田付近のことでしょう。「誉田陵」は「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)」すなわち応神陵(おうじんりょう)で、誉田御廟山古墳を指すと思われます。

田辺氏の知識・教養

 空想の絵空事のような説話ですが、応神陵付近で出会った赤馬のすばらしさを表現するために、非常に難解な記述をしています。ここにこそ田辺氏の「史」としての豊富な知識や学問的素養がうかがえます。これは大宝律令の選定など文筆活動に取り組む一族を世に知らしめ、「史」としての地位を安定させたと思われます。また、百済系の渡来系氏族の優秀さは応神朝に始まるという意識も見てとれるのではないでしょうか。

・赤馬
 赤馬はただ色が赤いというだけでなく、古来中国では「赤兎馬(せきとば)」などと呼ばれ、非常に能力の高い馬の象徴でした。

『後漢書』「劉焉袁術呂布列伝第六十五」

 「布常御良馬、號日赤兎。能馳城飛塹」とあります。「布は常に良馬を卸し、号して赤兎(せきと)と日(い)う。」と読めます。

『三国志』・『三国志演義』

 後漢の袁紹(えんしょう)のもとで活躍した呂布(ろふ)は、いつも「赤兎」というすばらしい能力をもつ馬に乗っていたといいます。赤毛で兎のように素早い馬という意味でしょう。また、西方からもたらされた能力の高い赤毛の馬を「汗血馬(かんけつば)」といい、血の汗をかくと言われました。八重山諸島にも、能力の高いアカンマー(赤馬)の伝説があります。

『文選(もんぜん)』「赭白馬賦(しゃはくばのふ)」

「異體峯生、殊相逸發。超攄絶夫塵轍、驅騖迅於滅没。(中略)欻聳擢以鴻驚、時濩略而龍翥。」とあります。『文選』は中国の周から梁までの千年にわたる詩・賦・文章などを収めたものです。この記述を引用しているあたりに、田辺氏の豊富な知識を見てとれます。

・驄馬(まだらうま)
 青白雑色の馬という意味で、マダラな毛をした葦毛の馬のことです。伯孫の馬は、ごく普通の馬だったのです。赤馬と競争をしても勝てるはずがありません。この場面を想像すると、月夜というのもその演出に一役かって、赤馬が飛び跳ねる様子が想像できます。

馬を交換する

『宋書』「五行志二四、牛禍(ぎゅうか)」

 ここでは、自分の牛と青牛を交換しています。そして零陵の涇渓に至り、青牛の走り回るさまは、普通のものではなかったとあります。馬と牛の違いはありますが、すばらしい能力をもつ牛を交換することだけでなく、御陵のもとを走り回るところまで共通しています。田辺氏は『宋書』についても知っていたのでしょう。

・馬に乗れる
 当時の馬の所持や利用頻度など、時代設定はともかく、田辺氏は親戚の家に馬で出かけるほど気軽に乗りこなすことができ、自宅に厩もあったことがわかります。

 喜んで赤馬を連れ帰った翌朝、伯孫が厩で見たものは埴輪の馬でした。そこに繋いでおいたはずの赤馬がおらず、馬を交換したところへ戻ると、昨夜まで乗っていた葦毛の馬が、誉田陵の埴輪の馬の中に並んでいました。つまり、伯孫が手に入れた赤馬は、誉田陵の埴輪の馬だったのです。

 この記述から、おそらく誉田御廟山古墳に立派な馬形埴輪が建て並べられ、赤馬を乗り回していた人物は応神その人であり、舞台となった誉田陵(応神陵)にも意味があると推測できます。

平尾山古墳群5-1馬形埴輪
参考:平尾山古墳群 第5支群1号墳出土 馬形埴輪(6世紀初め)

 『日本書紀』応神十五年八月に「百済王遣阿直伎、貢良馬二匹。」とあります。百済の王が、阿直伎(あちき)という人物を派遣して、良馬二匹を献上したという、この記録に「赤馬」を重ねているのではないでしょうか。その阿直伎を通じて応神は百済から優れた学者を呼び寄せました。それが王仁(わに)で、書首(ふみのおびと)等の始祖とされます。百済からの渡来系氏族である西文氏、田辺氏にとって、王仁を招いた「応神」は自分たちの存在を確認するキーワードのようなものだったのではないでしょうか。

誉田御廟山古墳

 赤馬のいた誉田陵(ほむたのみささぎ)はその表現から、雄略の時代のかなり古くから、誉田御廟山古墳が誉田天皇(ほむたすめらのみこと・応神)の誉田陵と意識されていたようです。

 誉田御廟山古墳は、大きさでは堺市の大山古墳に次ぐ墳丘長425mの前方後円墳で、体積では全国最大の古墳です。宮内庁の管理下にあるため発掘調査は実施されていませんが、墳丘から埴輪などは採集されています。また濠の外堤の一部は発掘調査が実施され、墳丘や堤に埴輪が立て並べられていたことがわかっています。埴輪は円筒埴輪や形象埴輪が出土しています。円筒埴輪は大型品で、5世紀前半の年代と考えられています。また話にある馬形埴輪ですが、これまでのところ全容がわかるものがありません。

田辺史伯孫のたどった道

西文氏

 伯孫の娘婿の書首加竜(ふみのおびとかりょう)は書氏の人物で、書氏は文氏ともいい、西文(かわちのふみ・河内書)ともいいます。応神のときに百済から招来されたと伝わる王仁を祖とする渡来系氏族です。東文氏(やまとのふみ)に対して西文氏といいますが、両氏族に直接の関係はありません。文筆・記録を職として活躍し、応神のころ(4世紀末~5世紀初頭)に渡来したと考えられています。本拠は河内国古市郡古市郷、今の羽曳野市古市付近です。河内在住の史を姓とする諸氏族の中心的位置を占め、馬史、桜野首(さくらののおびと)、栗栖首(くるすのおびと)、高志史(こしのふひと)などが分かれた氏族としてあげられます。

 6世紀後半以降は新しく渡来した王辰爾(おうしんじ)の一族である船史、白猪史、津史といった諸氏族に、文筆の職において次第に圧倒され、ふるわなくなりました。しかし、船史らも古市郡やその西の丹比(たじひ)郡を本拠としており、西文氏とは良好な関係にあったと考えられます。

田辺氏と西文氏

 古墳時代から飛鳥時代にかけて当時の婚姻形態については、父系性か母系性、夫方居住か妻方居住、諸説さまざまな形態があり、決まったものではなかったようです。赤馬伝説では、伯孫の娘は夫である書首加竜の家に居住し、出産に際しても実家に帰ることなく出産しています。これが事実と異なる架空の話としても、当時の生活とまったく合わない話をつくることはないと思われます。おそらく、田辺氏やその周辺の人々にとっては、妻は夫方に居住して出産し、生まれたこどもも夫方の子として育てるのが普通だったのでしょう。

 この婚姻関係は、田辺氏と西文氏との関係も示しています。西文氏に比べると、田辺氏は同じ百済系とはいえど新来の氏族です。しかし、婚姻関係を結ぶなど深い関わりをもっていたことがわかります。娘が嫁いだ先に伯孫が訪れるという設定も、伝統的な渡来系氏族である西文氏をたてたと考えることもできます。そして田辺氏に限らず、中河内から南河内にかけての渡来系氏族たちは、姻戚関係などを通じて関わっていたと想像されます。

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