難波より京に至る大道を置く

2019年11月10日

 推古天皇の時代において日本は、遣隋使から最新の文化や制度を積極的に取り入れ、国づくりの礎として公共工事を盛んに進め、大きく変わろうとしていました。『日本書紀』の記述に、推古21(613)年11月に「難波(なにわ)より京に至る大道(だいどう)を置く」とあります。この「大道」の設置は、物資や情報・外交の重要地だった難波と宮殿のある飛鳥を結び、一般にも広く目に見える形で変革を加速させました。

 「大道」が実際にどこを通っていたのかについて、現在の難波宮跡から真南に延びる「難波大道」とそれに直交する竹内街道(たけのうちかいどう)を経て、飛鳥に至るルートが通説とされてきました。しかし、これらの道路が7世紀初頭に設置されたとは証明されておらず、近年の発掘調査によって、その説が否定されつつあります。

古道の研究

主な遺跡と古代道路
主な遺跡と古代道路

古代道路 古代寺院・遺跡
A 渋河道 1 大坂城跡 10 高井田遺跡
B 龍田道 2 難波宮下層遺跡 11 平隆寺
C 太子道 3 住友銅吹所跡 12 斑鳩宮・斑鳩寺
D 「難波大道」 4 四天王寺 13 中宮寺
E 竹内街道 5 大和川今池遺跡 14 額田寺
F 長尾街道 6 久宝寺遺跡 15 保津・宮古遺跡
G 足利説丹比道 7 渋川廃寺 16 雷丘東方遺跡
H 足利説大津道 8 船橋廃寺 17 海石榴市
    9 衣縫廃寺    

 この「難波より京に至る大道を置く」について、岸俊男氏は難波宮からまっすぐ南へのびる道路と、それに直交する竹内街道のこととしました。大和の上ツ道、中ツ道、下ツ道、横大路の時期を検討し、『古事記』・『日本書紀』の記載内容と、飛鳥にある主要遺跡との強い関連性から、それらが推古朝に遡る可能性を考えました(岸1970)。また横大路へ直接接続し、推古天皇や厩戸皇子(聖徳太子)などの陵墓がある磯長の地(太子町)を抜ける竹内街道も、古くから存在したとしています。

 また竹内街道を「丹比道(たじひみち)」とみる岸氏は、難波と丹比邑(たじひむら・『日本書紀』)を結ぶルートとして、難波宮の中軸線を「真南」に延長した、南北縦貫道路の存在を想定しました。このような年代観と解釈の上に、南北道と竹内街道を、推古21年(613)の大道に位置づけたのです。この説は以後の研究に大きな影響を与え、その後「難波大道」と呼ばれ、広く知られることになりました。しかし、大和川今池遺跡の発掘調査で「難波大道」とされた南北道は確認されたものの、その後の調査で「難波大道」の設置は7世紀中頃以降であることが明らかになっています。

大和・河内の古道
大和・河内の古道(岸1970より転載)

古代の主要道路

※上ツ道…桜井市から奈良盆地東端の山沿いを北上して、天理市を経て奈良市中部に至る古道。南は桜井市仁王堂で横大路と交わり、更にその先は山田道を経て飛鳥へと通じている。また、櫟本(天理市)で「北の横大路」と交わっている。
※下ツ道…飛鳥の西方から奈良盆地の中央を北上し、平城京(現・奈良市)の朱雀大路となる道。
※中ツ道…上ツ道と下ツ道の間約2.1kmの所を平行して通り、橿原市の天香具山北麓から奈良市北之庄町に至る。 

※横大路…桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山付近まで東西にほぼまっすぐに設置された道。
※北の横大路…斑鳩町の法隆寺付近から天理市の櫟本までまっすぐ東西に通っていた道。現在の国道25号線の一部と奈良県道192号福住横田線の一部区間に相当する。別名、業平道。西側で龍(竜)田越奈良街道に接続する。 

※竹内街道…大和国と河内国を結んだ古代の幹線道路の一つ。堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る。
※長尾街道…大阪府堺市から東へ向かい、二上山の北麓・田尻峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道。「竹内街道」の北2キロに平行して整備された。

「難波大道」の発見

 1978~1980年、堺市と松原市との境界にあたる大和川左岸(南岸)で発掘調査が行われ、東西幅約18mの道路遺構が長さ40mにわたって発見されました(大和川・今池遺跡調査会1981)。この難波宮中軸線上の道路遺構は、推古21年の大道との関連を考えて「難波大道」と呼ばれるようになりました。

 1994年にも先の調査の北側で道路側溝が見つかり、検出した道路の長さはあわせて約210mとなりました。この場所は難波宮跡から南に約10kmの地点で、難波宮中軸の「延長線上」で直線道路の存在は確実となりました。問題となるのは、この道路遺構の年代です。

道路遺構の年代

 当時の道路面はほとんどが後の耕作などで失われているため、道路遺構の検出は非常に難しく、道の両側の側溝の存在から判断せざるを得ません。また単なる「溝」と道路の「側溝」の判別も難しく、広範囲に調査して並行に延びる2条以上の溝を確認し、ようやく「道路遺構」の可能性が浮上します。狭い範囲でも、古道の存在が事前にある程度認識されていれば、道路遺構を発見できる可能性は高まるでしょう。

 また人が通過するだけの道路は、年代の手掛かりとなる土器があまり出土せず、側溝の年代推定はさらに難しくなります。仮に通行人や周辺住人が側溝に土器などを廃棄したとしても、道路という性格上、側溝の再掘削、溝さらいなど、新たに手が加えられる可能性が高く、見つかったほとんどの土器は側溝の埋没時期を示し、設置された時期を判断できるものではありません。

「難波大道」の設置時期

 周辺の調査では「難波大道」と並行すると考えられる溝が見つかり、溝内出土の土器の年代から、道路の設置が5世紀後半まで遡るという説もありました。しかし2007~2009年の発掘調査で、設置時期について重要な発見がありました。1994年の調査地のさらに北側から、「難波大道」設置のための盛土の一部と、道路設置に先行する土坑が見つかったのです。盛土中の土器も土坑中の土器も、7世紀中ごろを示し、「難波大道」の設置は7世紀前半まで遡らず、7世紀中頃以降であることが確認されました。(大阪府文化財センター 2009)

 時期的にみれば、この「難波大道」は推古21年(613)の大道ではなく、『日本書紀』孝徳天皇白雉4年(653)の「處處(ところどころ)の大道を修治る(つくる)」という記事に相当する可能性があります。そうだとすると、これは孝徳天皇が難波に造営した長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや・652~、前期難波宮跡)に伴う大道であり、推古21年設置の大道は、現在確認されているルートと異なると考えられます。

 仮にこの「難波大道」が7世紀初頭に設置されていたならば、この道路に規制されて孝徳朝難波長柄豊碕宮(前期難波宮)が造られたことになります。しかし「難波大道」は谷の多い上町台地の東斜面を南北に延びており、道路の設置が先行したと考えるのは不自然です。やはり、難波宮の中軸線上に設定するために、上町台地の東斜面に道路をつくらなければならなかったのでしょう。

復元ルート1復元ルート2
「難波大道」復元ルート

「正方位道路」に先行する「斜方位道路」

 現在の竹内街道周辺に、斜方位の道路痕跡があることは以前から指摘されていました。足利健亮氏は竹内街道から大津池へ南西方向に延びる道を「大津道」(足利説大津道)、そして壬申の乱の記載による位置関係から、北西方向に延びる道を「丹比道(たじひみち)」(足利説丹比道)に比定しました(足利1985)。

壬申の乱の記載

 『日本書紀』に、日本古代史上最大の内乱であった壬申の乱についての記述があります。
 壬申の乱(672)7月1日に、大和の大海人方は、近江の大友方が河内から攻めてくると知って龍田道周辺を守っていました。ところが、高安城が近江方に占領されたと知って、坂本臣財(さかもとのおみたから)らは高安城に攻め上ります。それを知った近江方は、倉を焼いて逃げ下りました。城内で一夜を明かした坂本臣財らが西の方を見ると、大津道・丹比道より近江方の壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の軍が攻め寄せて来るのが見えました。そこで、坂本臣財らは高安城を下って衛我河(えががわ)を渡り河の西で戦いましたが、敗れて懼坂(かしこさか)に退却したといいます。

 その後、松原市による新堂遺跡・立部遺跡、近畿道や南阪奈道路建設に先立って行われた真福寺遺跡・郡戸(こおず)遺跡の調査では、側溝とみられる溝や道路遺構が確認されています。年代の決定は難しいのですが、この地域における斜方位道路の存在は確実視されるようになりました。

 近年の発掘調査成果や周囲の地割などを検討すると、「足利説大津道」は同方向の地割を伴う7世紀前半に、「足利説丹比道」は6世紀後半まで遡って設置された可能性があるようです。

※地割(じわり)…耕地,宅地,山林などを一定の基準で規則的に区画すること。古代から日本には条里制があり,土地や場所が割りふられていた。

 また古くから竹内街道に相当する道が利用されていたことは疑いありませんが、斜方位道路が7世紀前半までに設置されたものとすると、現在の竹内街道とは違うルートであった可能性が高く、方位に規制され東西にのびた直線道の竹内街道は7世紀中ごろ以降にできたことになります。

竹内街道の斜方位道路
竹内街道周辺の斜方位道路

推古21年の大道ルート

 推古21年(613)以前には、大和川を利用した舟運が難波津から飛鳥への主要ルートだったと考えられます。

 推古16年(608)に隋から裴世清(はいせいせい)、同18年には新羅からの使節が小墾田宮(おはりだのみや)を訪れ、どちらも大和川水運を利用したようです。裴世清は難波に一ヶ月半滞在し、海石榴市(つばいち・奈良県桜井市)で出迎えられ、そこから小墾田宮へ向かっています。遠回りになる海石榴市を経由している点から、船で河内湖から大和川を遡るルートが想定されます。

裴世清のたどったルート
裴世清のたどったルート

 しかし大和川は水深が浅く、大和・河内国境の亀の瀬を船で通過できずに陸に上がって峠越えしなければならないなど、水運にはとても不向きでした。当時の政権にとって、道路の整備も緊急の課題だったことは想像に難くありません。水運ルートに近い陸路を官道として選び、推古21年の「大道」として整備したと考えられます。この水運に代わる「道路」を大和川に沿ったルートに設定するのは、ごく自然なことでしょう。

想定される大道のルート
  1. 難波津から上町台地の最高所を南南西に進み、四天王寺の西に至る。(後の熊野街道ルート)
  2. 四天王寺で南東に折れて平野へ、そこから東南東へ折れ、渋川廃寺へ至る。
  3. 渋川廃寺からは大和川の左岸堤防上を進み、衣縫廃寺付近で石川を渡って大和川左岸堤防上を東進。
  4. 青谷付近で大和川右岸へ渡る。
  5. 平隆寺、斑鳩寺、そして中宮寺付近で折れて太子道を南東へ進み、飛鳥に到着。

ただし、河内における上記のルート上では、道路痕跡は確認されていません。

推古21年の想定ルート
推古21年「大道」の想定ルート

 大和川水運には、渋川や船橋、斑鳩などに中継施設があったはずです。渋河道を通れば、それらをそのまま利用することができます。しかも「難波大道」~竹内街道よりも距離が短く、高低差もはるかに小さいルートです。これ以外に推古21年の大道は考え難いと思われます。

・渋河道について詳しくはこちら

 直線的な道路を指向しながらも、地形などを考慮した結果、正方位ではなく、斜方位に延びる道路になったのでしょう。使節団などの来朝を機に、公的施設や官道など国内インフラ整備を広域で展開し、新たな国づくりを進めていったのです。

 この大道のルート設定には厩戸皇子(聖徳太子)が深く関わっていたとみられます。このルートは斑鳩を通過するうえ、7世紀初めから前半に創建された四天王寺、渋川廃寺、船橋廃寺、衣縫廃寺、平隆寺、斑鳩寺、中宮寺、額田寺などの寺院が道沿いに多数あり、それらは要所に配置されたと考えられます。一方、竹内街道沿いには、創建が7世紀前半まで遡る寺院はみられません。

 またこれらの寺院の多くからは、7世紀後半の法隆寺式軒瓦が出土しています。奈良時代には、渋川廃寺が位置する渋川郡と大県郡や志紀郡にも法隆寺領が存在したようです。渋川郡にあった多くの旧物部領が、物部との争いに勝利した上宮王家の所領となり、さらに上宮王家が滅亡して法隆寺に施入されたのではないでしょうか。

※上宮王家(じょうぐうおうけ)…聖徳太子一族の通称。 

「大道」のはじまり ー難波津ー

 難波津には船着場や倉庫、市場などと、それらの管理や外国の使節を迎えるための公的施設、航海の安全祈願の施設などがあり、海上・河川・陸上の接点として、人や物、情報が集まっていたと考えられます。場所については、高麗橋付近、三津寺付近、難波堀江付近一帯とする説などさまざまです。しかし、大阪城の北を東西に流れる大川(天満川)は、その地形などから人工の川とみられ、これが『日本書紀』仁徳紀に「冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海因以號其水日堀江」とある、いわゆる難波堀江と考えられています。難波堀江の7世紀以前の存在は間違いなく、難波津はその近辺にあったと推定されています。

 縄文時代には河内の内陸部まであった海水域が、次第に海面が低下、水域は大和川・淀川の運んでくる土砂によって狭くなり、淡水へと変化していきました。600年頃には難波津の東側一帯に、河内湖が広がっていたのは間違いなく、難波堀江はこれらの水を排水するために、5世紀ごろに掘削されたと考えられています。

難波津の様子
難波津周辺の様子

 他にも『日本書紀』には、高麗館、新館に難波大郡、難波小郡、難波館、三韓館、難波百済客館堂などが記載されています。高麗館や三韓館などは、外国からの使者の宿泊・接待、大郡は使者に対する外交のための施設でしょう。これらがどこに存在したかは、明らかになっていません。

 難波津周辺では、現時点で道を特定できる遺構は見つかっていませんが、地形からみて上町台地の最高所を直線的に延びる後の熊野街道、あるいは現在の谷町筋などが有力な候補です。この道を北に行くと現在の大阪歴史博物館付近に至り、その周辺では6~7世紀前半の掘立柱建物群(難波宮下層遺跡)が確認されています。この付近に大道が存在した可能性があります。

上町台地の現在形
上町台地の現在形

 現在の東横堀川に架かる高麗橋のすぐ東側の調査で、飛鳥の豊浦寺出土のものに類似した軒丸瓦と、四天王寺と同笵と考えられる軒丸瓦が見つかっています。(大坂城跡 11-16次 大阪文化財研究所2012)これらは、八幡市・枚方市にある楠葉平野山瓦窯産の可能性が高く、瓦窯から船で運ばれ、ここで陸揚げして四天王寺へ運ぶ予定が、割れるなどして廃棄された瓦かもしれません。

 この調査地から南西約100mの場所には、古代において東西方向に延びる細長い入り江があったとされ、入り江から東に向かって、上町台地上へ上陸した可能性が考えられています。

※豊浦寺…推古天皇の豊浦宮跡に営まれた日本最古の尼寺。現在の奈良県高市郡明日香村向原寺(こうげんじ)にあった。
※楠葉・平野山瓦窯群跡…7世紀前半から中頃にかけて操業された日本最古級で最大規模の窯跡。8基の地下式登り窯で構成され、四天王寺の創建時の瓦のほか、奥山廃寺式、豊浦寺式、山田寺式とよばれる軒丸瓦や重弧文軒平瓦、鴟尾などが出土している。

 また三津寺町から東へ約1kmの調査では、7世紀中頃の多数の舟形木製品や儀式後に廃棄されたとみられる斎串や人形などが、溝の中から見つかりました。(住友銅吹跡所)これら舟形木製品には、形状の違うものがいくつかあり、当時、さまざまな形の船が難波津を往来した情景が浮かび上がります。

東への起点 ー四天王寺ー

 現在の上町台地は谷が埋め立てられ、平坦地も多くありますが、東西方向の谷が入り込んだ地形です。大道は、それらの谷を避け、南西方向に延びる上町台地の最高所に設置されたと見るのが自然でしょう。その道を南に進むと、四天王寺の西側に至ります。四天王寺も、上町台地最高所近くに立地しています。

四天王寺

 1950年に講堂跡、1955年~57年に南大門・中門・金堂・回廊などが本格的に調査され、創建当初のままの伽藍配置が確認されています。厩戸皇子が創建に大きく関わっているのは周知のとおりで、『日本書紀』推古天皇元年(593)に、「始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあります。

 ここから見つかった軒丸瓦はいくつかに分類でき、創建時には素弁八葉蓮華文軒丸瓦と無文の軒平瓦が堂塔を飾っていたことがわかっています。軒丸瓦は楠葉平野山瓦窯から供給され、これと同笵の瓦が、斑鳩寺、法輪寺、平隆寺で見つかっています。この同笵関係からみると斑鳩寺の推古15年(607)の創建よりやや遅れて、四天王寺は推古21年の大道とほぼ同時期に創建された可能性があります。

 この四天王寺の南東に東西約200m、南北約100mの「往大道」という地域があり、この地名と「難波大道」を関連づける見方もあります。しかし「難波大道」はこの地域から東へ約200mと距離があり、「往大道」の範囲が東西に延びる点から、渋河道に伴うと考えたほうがいいでしょう。この場所は現在、国道25号線に沿って斜めに広がる天王寺区大道にほぼ相当します。

四天王寺周辺の地名
四天王寺周辺の地名(清水1995より転載、一部加筆)

堤の上をゆく ー渋河道ー

 四天王寺の南西隅あたりから東に折れる大道は、東から約40°南へ振って直線的に延び、現在の平野区あたりで東から約10°南へと角度を変え、渋川廃寺へ至ったとみられます。

 「渋河道」という名称は、『続日本紀』孝謙天皇天平勝宝8年(756)、難波宮からの帰り道に「車駕」により「渋河道」を通って「智識寺行宮」に至ったという記事に登場するのみです。しかしこの道は、元正・聖武・孝謙天皇らが難波宮へ行幸した8世紀には幾度も利用され、難波宮と平城宮を結ぶ主要道路でした。渋河道は旧大和川沿いを通るため、流れによって変遷したと考えられ、8世紀当時の本流だった平野川の堤防上を陸路で進んだのでしょう。7世紀代の推古21年の大道も、この付近を通っていたと考えられます。

渋河道と周辺寺院
渋河道と周辺寺院

久宝寺遺跡(第33次)

 渋河道の可能性のある遺構が、八尾市立病院建設に先立つ調査で見つかっています。(八尾市文化財調査研究会 2004)調査区のほぼ中央部で、北西~南東方向に並行に延びる2条の溝が検出されました。幅は約9mで、東から約40°南に振っています。この遺構の北側の流路から、三彩土器や墨書土器などが出土し、遺跡周辺に公的施設があった可能性があります。遺物は6世紀後半から8世紀のものですが、道路状遺構は想定される推古21年(613)設置の大道と方位の角度が異なり、別の道路かもしれません。

渋川廃寺

 2002年の発掘調査で見つかった10m四方の方形の基壇跡が、塔跡と推定されています。この基壇盛土には奈良時代後半の瓦片が含まれ、再建された塔基壇と考えられています。塔基壇の位置から四天王寺式伽藍が想定されていますが、創建時の配置は不明です。

 創建瓦は豊浦寺式で、7世紀前半のものとみられます。調査で見つかった周辺の溝から寺域を復元すると、その軸方向に並行・直交する道路が、現在もみられます。この斜方位の地割は、付近の想定される渋河道と同じ角度(東から約10°南)であることから、渋河道に沿って、渋川廃寺の寺域や地割が設定された可能性が考えられます。

渋川廃寺の推定寺域
渋川廃寺の推定寺域(八尾市文化財調査研究会2004を参照)

 創建は誰によるものかはっきりしていません。天平19年(747)の法隆寺領が記されている『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(ほうりゅうじ がらんえんぎ ならびに るき しざいちょう)』(江戸時代の写本)には、渋川郡に法隆寺領があったとされ、かつて物部氏の本拠地だったこの場所が、法隆寺領になった経緯は明らかではありません。しかし7世紀後半の法隆寺式軒瓦が見つかるなど、この付近の土地の多くが物部氏滅亡後に上宮王家の所領となり、渋川廃寺の創建に関わった可能性があります。

 また伝承ですが、渋川廃寺の法灯をひく将軍寺は下太子と呼ばれており、この渋河道ルートと厩戸皇子との関わりを想定する根拠の一つになっています。対外交流の促進を図る厩戸皇子が、道路整備にのりだして設置したのが推古21年の大道だったと考えられます。

※将軍寺(大聖勝軍寺・だいせいしょうぐんじ)…八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の寺院。聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」「太子堂」と呼ばれている。

船橋廃寺

 渋川廃寺から旧大和川の左岸堤防上を南東に進むと、船橋廃寺に至ります。採集されている瓦から、7世紀初め~前半の創建と考えられています。このあたりは、柏原市・藤井寺市にまたがる船橋遺跡の範囲内で、旧石器時代から近世まで続く複合遺跡として知られています。1704年の大和川付け替えにより河床となり流水による削平を受けたため、土器や瓦などが多数散乱し、かつては遺物の採集ができる河川敷として有名でした。

大和川河床に露出する礎石
大和川河床に露出する礎石(昭和30年頃)

 露出した礎石などから、四天王寺式伽藍配置と考えられていますが、詳細は不明です。創建瓦は「船橋廃寺式軒丸瓦」と呼ばれる素弁八葉蓮華文軒丸です。同笵瓦には奥山廃寺(明日香村)、西琳寺(羽曳野市)があり、奥山廃寺→西琳寺→船橋廃寺と笵が移動し、船橋廃寺での改笵が考えられています(花谷2000)。ここからすぐ南の衣縫廃寺(いぬいはいじ)からも同笵の素弁蓮華文軒丸瓦(飛鳥寺II型式)、獣面文軒丸瓦や同系統の軒丸瓦が見つかり、2つの寺院のつながりが想定されます。ほかに7世紀後半の法隆寺式軒瓦などがあります。船橋廃寺は創建後、山田寺、川原寺など飛鳥の寺院と類似した瓦が多用され、官寺であった可能性があります。

船橋廃寺の瓦1
船橋廃寺 軒丸瓦

山裾をぬけて ー龍田道ー

 柏原市内では船橋廃寺以外、7世紀前半の寺院は確認されていません。生駒山西麓の「河内六寺」も、創建は7世紀後半であり、鳥坂寺、智識寺などは古くみても7世紀中頃以降でしょう。

 渋河道から龍田へと至る道として、2つのルートが考えられます。

 ひとつは、船橋廃寺から大和川を渡り、柏原の山中を抜け青谷を経て、龍田へと進むルートです。この山越えルートの設置時期は、河内六寺や河内大橋の創建などから7世紀後半以降、あるいは平城京遷都、難波宮の整備にともなって8世紀に整備された道と考えられます。

 もうひとつが、衣縫廃寺あたりから石川を渡り、そのまま大和川左岸の堤防上を進み、川が最も狭くなる青谷付近で渡河し、先と同じ道を行くルートです。このルートは、石川、大和川と2回川を渡るものの、山を越えることなく進むことができます。推古21年の大道が舟運のルートを引き継いだならば、こちらの可能性が高いと考えられます。

竜田道と周辺寺院
龍田道と周辺寺院

7世紀の柏原

 この時代、柏原にも大きな変化が起きていました。生駒山西麓の扇状地に立地する大県・大県南遺跡は、6世紀の鍛冶集落として全国最大規模でしたが、7世紀を境に遺構や遺物は減少していきました。その一方で生活に不便な山の斜面や、後の東高野街道の西側(旧大和川東側の湿地帯)へと範囲は拡大します。同様の現象が太平寺・安堂遺跡の集落でも起こっています。

 大和川より南の田辺遺跡では、北側に6世紀後半から集落が形成され、7世紀に南側へ拡大していきます。北側は7世紀に鉄器生産、玉造り、瓦生産など生産域として盛行し、大県・大県南遺跡にいた鍛冶集団が、こちらに移住したのかもしれません。

 また高井田遺跡、玉手山遺跡は、山の斜面地に突如集落が出現します。このうち高井田遺跡は集落の規模、変遷などの実態が把握されています。この集落は6世紀末から7世紀初めに始まり、7世紀を通して建物数が170棟ほどと最盛期を迎えます。しかし、8世紀になると急速に集落は縮小しています。こうした動向は遺跡の南西に隣接する鳥坂寺との関連が考えられます。

高井田遺跡 土師器・須恵器
高井田遺跡 土師器・須恵器

 このように柏原市周辺の集落の立地は、6世紀代と7世紀代とで顕著に違います。この変化は、おそらく7世紀代に官道として整備された後の東高野街道と関係するもので、6世紀の集落の地は、寺院や官衙など公共施設の用地として確保され、人々は山の斜面や湿地、別の集落への移住を余儀なくされたのではないでしょうか。推古朝の新たな国づくりの波は、大道だけではなく、この柏原市内にも押し寄せていました。

6・7世紀代の柏原市内の集落
6・7世紀代の柏原市内の集落(破線の道・寺院は7世紀後半に成立)

法隆寺との接点

 7世紀後半に再建されたと考えられるの法隆寺西院伽藍には、蓮子が三重に巡る大きな中房に、複弁の蓮華文、外縁に鋸歯文が巡る軒瓦と、斑鳩寺(創建法隆寺)などと同様の忍冬唐草文の軒平瓦がセットとなる「法隆寺式軒瓦」が採用されていました。7世紀後半に広まったとみられるこの軒瓦は、奈良県、兵庫県を中心に、愛知県から大分県までの各地、そして柏原市内では船橋廃寺と山下寺で見つかっています。

法隆寺式瓦 山下寺
法隆寺式軒丸瓦 山下寺

法隆寺式瓦 船橋廃寺
法隆寺式軒丸瓦 船橋廃寺(採集品)

 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、法隆寺に施入するための庄・庄倉(荘園から徴収した穀物を貯蔵しておく倉庫)の所在地は、河内国では大県郡、和泉郡、渋川郡、志紀郡、日根郡、讃良郡の6つが記載されています。船橋廃寺は志紀郡、山下寺は大県郡にあり、渋川廃寺も含めて『資財帳』の記載と瓦の出土が一致します。これらは各寺院に対して、法隆寺の瓦供給などの支援があったことを示しています。

斑鳩宮・斑鳩寺

 青谷で大和川左岸から右岸へと渡り、峠を経て、平隆寺あたりで若干南に折れ、さらに進むと斑鳩宮・斑鳩寺に至ります。『日本書紀』によれば、厩戸皇子は推古9年(601)に斑鳩宮を建て、推古13年(605)にこの宮へ移りました。それから17年間ここで政務を執り、推古30(622)年に死去、その後長子山背大兄王に継がれ、皇極2年(643)に蘇我入鹿らに襲撃されるまで上宮王家の宮として営まれました。

 飛鳥から直線距離で16kmも離れた斑鳩に、宮殿と寺院を建てた目的には、河内への入口である要所に居を構え、難波津からもたらされる最新の情報・文化をいち早く受け入れる体制づくりがあったのではないでしょうか。宮の着手から移るまで4年を要したことは、単に宮の建設だけでなく、斑鳩の開発が広範囲に及んでいたと考えられ、厩戸皇子の強い姿勢がうかがわれます。

 夢殿などのある現在の東院伽藍の下層から、焼けた壁土や瓦を伴って7世紀前半の掘立柱建物や石敷き遺構が検出され、その周辺に斑鳩宮が広がっていたと考えられます。建物は2時期に分けられ、主軸をそろえて配置されています。これら建物群を約200m四方に区画する溝も検出されています。焼けた壁土などは、643年の蘇我入鹿らによる襲撃の痕跡と推定されます。

法隆寺の再建説

 この斑鳩寺が今の法隆寺のことかどうかをめぐって、古くから法隆寺再建・非再建論争が繰り広げられてきました。しかし現在は、東院と西院の間に存在する「若草伽藍」が斑鳩寺の遺構であるという考えがほぼ定着してきました。寺外にあった若草伽藍の塔心礎が1939年に寺に返還され、一部が調査されました。その後幾度も調査され、境内の南東隅では塔跡と金堂跡が発見されています。次第に塔・金堂の規模、寺域の範囲などが明らかになり、2004年には火災で焼けた瓦や画の描かれた壁土などが発見されました。

 調査によると、若草伽藍の主軸は北から約22°西に振っており、斑鳩宮と推定される東院下層遺構とほぼ同じです。これはほぼ南北を主軸とする現在の法隆寺と大きく異なります。金堂基壇は東西22m、南北19.5mの規模で、塔基壇は一辺長15.9mです。また、北と西を画すると推定される柵の遺構が確認され、寺域は東西450尺(約160m)、南北500尺(約180m)と復元されます。中心伽藍は、寺域の西に寄った位置に存在したようです。

斑鳩寺・斑鳩宮推定図
斑鳩寺・斑鳩宮推定図(橿原考古学研究所附属博物館2001より転載、一部加筆)

 斑鳩寺について今の金堂にある薬師如来像の光背銘文によれば、厩戸皇子の父・用明天皇の誓願を成就すべく、推古天皇と厩戸皇子が推古15年(607)に仏像と寺院を造ったとあります。さらに「丁卯年」とあり、これが推古15年(607)とすると、斑鳩寺(若草伽藍)の金堂は607年には仏像を納められる状態にあったことになります。これらから、現在の法隆寺は『日本書紀』天智天皇9年(670)にある火災の後、再建された伽藍とみられます。

飛鳥へ至る ー太子道ー

 斑鳩から東へ進み、中宮寺のやや先で南へ直角に折れ、太子道を経て飛鳥へ至ります。厩戸皇子(聖徳太子)は大道のルート設定に先立って、斑鳩に宮と寺を造営し、斑鳩から飛鳥までの太子道を設置していました。斑鳩と飛鳥を最短距離で結ぶこの道は、筋違道(すじかいみち)とも呼ばれています。

 太子道は、田原本町あたりまで一部現行の道路と重複するため明確ですが、それより先ははっきりしません。この道は北から約20°西に振り、斑鳩宮・斑鳩寺の軸方向とほぼ一致します。また保津・宮古遺跡の調査から、この道が推古9年(601)に始まる厩戸皇子の斑鳩の開発に先行して、6世紀の後半には存在し、斑鳩宮・斑鳩寺を含めた周囲の斜行地割は、この太子道に規制された可能性があることがわかっています。

太子堂周辺の様子
太子道周辺の様子

保津・宮古遺跡

 田原本町保津の標高約50mの沖積地に立地します。調査で幅約3m、深さ0.5m、検出した長さ25mの太子道の西側溝が見つかりました。この溝は再掘削されたもので、当初の掘削は6世紀中頃で、7世紀後半には埋没したと考えられています。ここと対になる東側の側溝は確認されていませんが、幅22mほどの道路面が推定されています。この調査により、はじめて太子道の存在が確認され、設置から埋没までの期間を知ることができました。なお、この道とは別に東西に延びる道も見つかり、ここが古代の交差点だったこともわかっています。

小墾田宮(おはりだのみや)

 崇峻5年(592)に豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古天皇は、推古11年(603)に新たに造営された小墾田宮に移り、25年間を過ごしました。ここを訪れた裴世清などの記述から、南門や大門、大殿などがあったとされます。この宮は推古天皇没後も、皇極元年(642)、斉明元年(655)などに登場します。舒明2年(630)に飛鳥岡本宮に遷されますが、『続日本紀』天平宝宇4年(760)に淳仁天皇がこの宮へ行幸した記事もあり、離宮として存続していたと考えられます。

 所在地は、明日香村の雷丘東方(いかずちのおかとうほう)遺跡が有力視されています。1987年の調査で、奈良時代の井戸から8世紀末前後の「小治田宮」と墨で書かれた土器が11点見つかっており、奈良時代の小墾田宮はこの場所でほぼ確定しました。周辺で7世紀前半の池跡や溝なども確認され、これらが推古天皇の小墾田宮に関連する遺構の可能性は高いようです。

雷丘東方遺跡遺構図
雷丘東方遺跡遺構図
(明日香村教育委員会 1997 より転載、一部改変)

 

参考文献(50音順)

・足利 健亮 1985『松原市史』第1巻 松原市役所
・明日香村教育委員会研究会 1997『明日香村遺跡調査概報 -平成9年度-』
・大阪府文化財センター 2009『大和川今池遺跡I』
・大阪文化財研究所 2012『大坂城跡X IV』
・橿原考古学研究所附属博物館 2001『聖徳太子の遺跡』
・岸 俊男 1970「古道の歴史」『古代の日本』5 角川書店
・清水 靖男 1995「大阪実測図(内務省地理局測量課作製 1886)」『大阪都市地図』柏書房
・花谷 浩 2000「大和と河内を股にかけた瓦」『奈良国立文化財研究所年報』2000-I
 奈良国立文化財研究所
・八尾市文化財調査研究会 2004『渋川廃寺 第2・3次調査』
・安村 俊史 2012「推古21年設置の大道」『古代学研究』196 古代学研究会
・大和川・今池遺跡調査会 1981『大和川・今池遺跡III』

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