安宿郡の古墳と寺院~4~

2019年4月22日

近つ飛鳥と安宿郡

 みなさんは近つ飛鳥と聞いて、どのような風景を思い浮かべるでしょうか。推古天皇陵や聖徳太子墓のある太子町の風景でしょうか。それとも大阪府立近つ飛鳥博物館やその周辺に広がる一須賀古墳群の風景でしょうか。それでは、どうして「近つ飛鳥」あるいは「河内飛鳥」と呼ばれるのでしょうか。

 『古事記』履中天皇の段に、水歯別命(みずはわけのみこと)が難波から大和へ入る際に大坂山口に至り、そこを「近飛鳥」と名付けたとあります。そして、大和で到着した地を「遠飛鳥」と名付けたということです。「遠飛鳥」は奈良の飛鳥のことです。難波からみて近い、遠いということでしょう。水歯別命は、のちに反正天皇になる人物です。

 『日本書紀』履中天皇即位前紀には、大坂より倭(大和)に向かう際に「飛鳥山」に至ったとあります。『古事記』も『日本書紀』も、大坂道(穴虫越え)の河内側の入口付近を「飛鳥」と称しています。これらの記述から、「近つ飛鳥」とは、羽曳野市飛鳥周辺のことと考えられます。

 「近つ飛鳥」をもう少し広い範囲の名称と考えた場合には、安宿郡を指すと考えるのが妥当でしょう。郡名が「飛鳥」なのですから。それでは、太子町や河南町も近つ飛鳥と呼べるでしょうか。飛鳥より南は石川郡となります。郡を越えて飛鳥の名称を使うことは考えられないでしょう。つまり、近つ飛鳥とは、狭義では羽曳野市飛鳥周辺、広義としては安宿郡のことと考えるべきでしょう。

 これに対して、履中天皇のころ、すなわち5世紀ごろには飛鳥の範囲は違っていたかもしれないという意見もあると思います。そのとおりですが、『古事記』や『日本書紀』が編さんされたのは7世紀の終わりから8世紀初めにかけてです。これらを編さんした人たちが近つ飛鳥と聞いて連想するのは、やはり安宿郡のことだったでしょう。一般に考えられている近つ飛鳥のイメージは誤っており、本来は安宿郡を考えるべきでしょう。

(文責:安村俊史)

安宿郡の古墳と寺院
図:安宿郡の古墳と寺院

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