安宿郡の古墳と寺院~2~

2019年4月8日

安宿郡(あすかべぐん)の範囲

 安宿郡は、柏原市南部と羽曳野市南東部の一部であったと考えられます。具体的には、北は大和川、東は大和との国境、西は石川、南は竹内街道周辺の羽曳野市駒ヶ谷、飛鳥まででしょう。

 しかし、この範囲が現在は柏原市と羽曳野市に分かれていることから考えると、どうして一つの郡になっていたのかと不思議に思います。柏原市と羽曳野市の市境に、鉢伏山や寺山などの山が存在し、地形的に分断されているからです。実際に駒ヶ谷や飛鳥は竹内街道を通じて石川の対岸にある古市などとの結びつきが強く、江戸時代までに古市郡に編入されています。どうして古代の安宿郡に駒ヶ谷や飛鳥が含まれていたのでしょうか。

 それは、道を基準に郡を設定したからだと考えられます。安宿郡の北には大和川に沿って龍田道(竜田道)が東西にのびていました。そして、安宿郡の南には竹内街道が東西にのびていました。この2本の道のあいだに設定されたのが安宿郡だったと考えられます。

 龍田道は7世紀初頭に難波から飛鳥への道として整備されました。『日本書紀』推古21年(613)にみえる「難波より京に至る大道を置く」に相当する道だと考えられます。一方の竹内街道は、7世紀中ごろの難波長柄豊碕宮の造営に伴い、宮中軸線を南に延長したいわゆる「難波大道」と、それに直交する正方位の道として整備されたと考えられます。

 一般に竹内街道は竹内峠を越えるための道と考えられていますが、『古事記』や『日本書紀』の内容から考えると、大坂道と呼ばれる穴虫越えの道のほうがよく利用されており、大坂道への連絡道として設置されたと考えられます。竹内峠越えも古くからあった道ですが、あくまでも大坂道の裏道として利用されていたようです。同じ7世紀中ごろに設置された正東西にのびる長尾街道は、龍田道への連絡道として設置されたと考えられます。

 古代においては、龍田道と大坂道がもっとも重要な道路でした。天武天皇8年(679)に龍田山と大坂山に関が築かれています。この2本の道が重要視されていたことがわかります。重要であった2本の道のあいだの大和・河内の国境部分に設定されたのが安宿郡だったのです。安宿郡が重視されていたことがわかります。安宿郡の範囲がどのように設定されたのか、わかっていただけたことと思います。

(文責:安村俊史)

安宿郡の範囲
図:安宿郡の範囲

【春季企画展のお知らせ】
平成31年3月30日(土)から6月16日(日)まで、春季企画展「安宿郡の古墳と寺院-7・8世紀の近つ飛鳥-」を開催しています。
この機会にぜひご覧ください。

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