歌の解説と万葉集

2019年7月23日

 「令和」の元号が『万葉集』から採られたということで、『万葉集』への関心が高まっています。「令和」は、巻5の「梅花の歌 三十二首(815~846番)」の題詞にある「初春令月 気淑風和〔初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ〕」から採られました。

万葉集とは

 『万葉集』は、全20巻から成る現存最古の歌集です。大伴家持を中心に奈良時代末に完成したとされていますが、不明な点も多く、7世紀後半ごろ編纂に着手、その後次々に編纂を加えていったようです。7世紀前半から天平宝字3年(759)までの約130年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌・など4500首余りの歌が収録されています。天皇・皇后をはじめ皇族や貴族、防人など一般民衆の歌まで含まれ、素朴ななかにも力強さ、たくましさを感じる歌が多くあります。

 歌風などを検討する場合、多くは四期に分けられます。第一期は舒明期(629~641)から壬申の乱(672)まで。第二期は平城遷都(710)まで。第三期は天平元年(729)もしくは5年(733)まで。第四期は天平宝字3年まで。高橋虫麻呂は第三期の歌人とされ、同じ第三期の歌人として、山部赤人、大伴旅人、山上憶良、坂上郎女がいます。抒情性を深めた個性的な歌風が生み出された時期にあたります。

 内容からは、雑歌、相聞歌、挽歌に大きく三分類されます。雑歌とは、「くさぐさのうた」という意味で、相聞歌・挽歌以外の歌が納められています。相聞歌は、主に男女の恋、挽歌は、死者を悼む歌です。

 『万葉集』の歌は、日本語を漢字で表記した万葉仮名で書かれています。そのため、ときに読みにくい歌もありますが、日本人による日本語の歌として貴重なものです。最近は、万葉仮名で書かれた歌が、木簡や墨書土器として発掘調査で発見される例も多くあります。

歌の解説

 高橋虫麻呂の「河内の大橋を独り行く娘子を見る歌」です。ここには、この歌がだれの作であるか書かれていません。しかし、1760の歌のあとに、「右の件の歌は、高橋連虫麻呂が歌集の中に出でたり」とあり、1738の歌以下の23首がすべて『高橋連虫麻呂歌集』から採ったようです。『高橋連虫麻呂歌集』はもちろん現存せず、虫麻呂以外の歌も収載されていた可能性もありますが、この23首は歌の特徴や内容などから、すべて虫麻呂の作と考えられます。

河内の大橋を独り行く娘子(おとめ)を見る歌一首 并せて短歌

しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き
山藍もち 摺れる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす児は 若草の
夫(つま)かあるらむ 橿の実の ひとりか寝らむ 問はまくの
欲しき我妹(わぎも)が 家の知らなく

反歌

大橋の 頭(つめ)に家あらば ま悲しく ひとり行く児に 宿貸さましを

現代語訳

河内の大橋をひとり行くおとめを見て作った歌一首と短歌

(しなでる)片足羽川の 朱塗りの 大橋の上を 紅染めの 赤裳の裾を引き
山藍で 染めた服を着て ただひとり 渡っているあの児は (若草の)夫があるのだろうか (橿の実の)ひとりで寝ているのだろうか 問い尋ねて みたいあの児の 家も分からないことよ

反歌

大橋の たもとに家があったら 可憐にもひとり行く児に 宿を貸してやるのに

『万葉集』巻第九 1742・1743
(小学館『新編日本古典文学全集七・萬葉集二』1995)

 まず、河内の大橋を一人で渡っていく女性を見て詠んだ歌であると題詞にあります。題詞とは、その歌が詠まれた事情や趣旨などを書いたものです。また、この歌は長歌です。短歌は五七五七七の三十一文字ですが、長歌は五七調を繰り返し、最後を七七で締めくくります。そしてその後には短歌を伴います。ここでも、「并せて短歌」と断り書きがあります。

・「独り行く娘子」の「独り」は、女性の孤独感を示すと同時に虫麻呂の孤独感も表現しているといいます。しかし、女性への思いを強調する表現ともとれます。

しなでる 片足羽川の

「しなでる」は片足羽川の「片」にかかる枕詞とされ、どのような意味かは不明です。

「片足羽川」は「カタアスハガハ」とも読み、ここでは「カタシハガハ」と読んでいます。これを石川と考える説もありますが、通説通りに大和川のことで間違いないようです。

さ丹塗りの 大橋の上ゆ

「さ丹塗りの」「さ」は接頭語で、「丹」は酸化第二鉄、ベンガラのことです。ベンガラは赤色の顔料として、しばしば使用されました。つまり赤い丹塗りの橋だったというのです。おそらく欄干だけでしょうが、丹塗りの橋は当時では珍しかったでしょう。

「大橋の上ゆ」「ゆ」は経由の「ゆ」で、通ってという意味です。

 橋は彼岸へ渡るもの、他界へ導くものとして、非日常、異空間、あるいは別離の象徴とされました。それが、この歌の女性とのかなうはずのない恋を表すとされていますが、美しい橋と美しい女性、そして、かなわぬ思いと、ありのままにとらえてもいいように思います。

紅の 赤裳裾引き
山藍もち 摺れる衣(きぬ)着て

「紅の赤裳」は、ベニバナで赤く染めた裳という意味です。

「裳」は古代女性の衣服で、高松塚古墳の壁画女性が着ているひだのあるスカートのようなもののことです。「裾引き」で、赤く染められた裳の裾を引きながら橋を渡っているのです。

「山藍もち」「山藍」とは、とうだい草科の多年草で日本に自生する植物です。「摺れる衣着て」なので、山藍で摺り染めした上衣を着ています。摺り染めは、糸ではなく布を染色する方法です。

 一般に染料となる藍は、蓼科のタデアイです。タデアイは、いわゆる藍色、紺に近い色になりますが、山藍で染めると、淡い緑色になるといいます。確かに葉で染めると緑色になるようです。しかしこれについて、山藍の根茎を使用すると、見事な藍色に染まるという研究実験の成果があり、やはり橋上の女性は、藍色の上衣を着ていたのでしょう。

 藍色の上衣に赤い裳をはいた女性は、いかにも艶やかで、コントラストが象徴的です。丹塗りの橋ともあいまって、色彩感覚に富んだ歌となっており、万葉集には珍しい歌です。

ただひとり い渡らす児は

「ただひとり い渡らす児は」「渡らす」は渡るの軽い敬語。「児」は親しみをこめた表現でしょう。たった一人で渡っているあの児は。

若草の 夫(つま)かあるらむ 橿の実の ひとりか寝らむ 問はまくの

「若草の」「若草」は妻(または夫)の枕詞。妻のみずみずしさを若草に喩えた枕詞です。なお、妻も夫も「ツマ」と読みます。「夫かあるらむ」は、橋を渡っていく女性に夫がいるのだろうか、という問いかけです。

「橿の実の」は、「ひとり」の枕詞。橿の実、つまりドングリなどは、帽子のような殻に実がひとつしか入っていないことから、ひとりの枕詞となります。

「ひとりか寝らむ」は、ひとりで寝ているのだろうか。つまり独身なのだろうか、ということです。

「問はまくの 欲しき」は、問い訪ねてみたい、です。この前に出てくる夫がいるのか、それとも独身なのかを尋ねてみたいというのです。それとともに「妻問い」、つまり女性の家を訪ねることもさしているとも考えられます。

欲しき我妹(わぎも)が 家の知らなく

「妹(イモ)」は、普通は妻や恋人に対することばですが、親しみをこめた女性へのことばです。見ず知らずの女性に「我妹(ワガイモ、ワギモ)」、私の彼女と呼びかけているのです。

「家の知らなく」で、尋ねてみたいが、私は彼女の家を知らないので尋ねることができないということになりますが、この「家」を家柄・素性ととる説もあります。が、普通に彼女の住む家と考えていいのではないでしょうか。

 反歌では、その感想とも結論ともとれる歌が詠まれています。

大橋の 頭に家あらば

「頭(ツメ)」は行き詰ったところ、橋のたもとのことです。河内大橋のたもとに私の家があったならば、ということになります。

 橋のたもとは歌垣が行われる場所であり、そこに女性を誘う意味もあるとする研究者は多いようです。歌垣とは、男女が互いに歌を詠みながら、自由な性を楽しむ場であり、求婚の場でした。しかしそこまで考えなくても、この歌の艶やかさは十分表現されており、橋のほとりに家があったなら、ということでいいのではないでしょうか。

「ま悲しく」は、原文には「心悲久」とあり、「ウラガナシク」と読むべきという説もあります。「ウラガナシ」は心の奥で切なく思われる、「マカナシ」だと見た目の感情で悲しそうな様子で、という意味になるでしょうか。「ウラガナシク」では字余りになり、「マカナシク」とする方が多いようです。

ひとり行く児に 宿貸さましを

・一人で淋しそうに渡っていく娘子に、宿を貸してあげるのに。つまり一晩泊めてあげるのに、ということです。それは、一緒に寝てみたい、さらには妻になってほしいという表現でもあります。

・娘子は、「妹」とも「児」とも詠まれています。虫麻呂の親しみ、愛情の表現でしょう。

歌を読み解く

 河内大橋を一人で淋しそうに渡っていく美しく着飾った女性。結婚しているのか、それとも独身なのか。自分の家が大橋のたもとにあったならば、彼女を泊めて、一夜を共に過ごしたいという、何とも大胆な、想像力豊かな歌です。この歌はやや高台から河内大橋を見下ろしながら、声をかけても届かない程度の距離で詠まれたと考えられ、おそらく顔までは見えていない見ず知らずの女性に対して、ここまで歌にする虫麻呂の想像力と表現には恐れ入ります。

 また女性の衣装や丹塗りの橋など色彩感覚に富み、その鮮やかな色彩とともに、幻想の世界に浸るような印象を与えられます。雄大な大和川に架かる美しい河内大橋。そこを渡る美しい女性。その情景が、虫麻呂の歌心に火をつけたのではないでしょうか。

 虫麻呂は女性の姿を見ておらず、空想で実際の景色を詠んでいない、あるいは橋は彼岸へ渡るもので、日常とはかけ離れた世界を詠んだという意見があります。また橋を渡る「娘子」についても遊女、橋姫や七夕の織女のような神の存在、地元の里乙女とする説などさまざまありますが、女性の衣装から、やはり官女か貴族の娘ではないでしょうか。官女とすれば、都の官人の娘か、橋の西にある河内国府(船橋遺跡?)の官人の娘か。

 このようにいろんな解釈もありますが、実際に見た風景をもとに、思わず歌に詠んだと考えたほうが、この歌の素晴らしさが感じられるのではないでしょうか。女性が美しいかどうかなど関係ないのです。遠くから見た女性の姿に、思わず誘いたくなったと考えられます。

河内大橋を渡る娘のイラスト
河内大橋を渡る娘(作画:岡野 有幸氏)

高橋虫麻呂

 生没年、出身地、家系など不明な点が多く、謎に満ちた歌人です。東国の歌が多いので東国出身とする説もありますが、畿内出身のようです。藤原宇合に仕えていたことは間違いなく、宇合の活躍時期から第3期の歌人と考えられています。藤原宇合(694~737)は、藤原不比等の子で、四家の一つ式家の祖です。宇合も漢文の素養に長け、虫麻呂の文学的才能を高く評価していたのではないでしょうか。宇合が西海道節度使として赴任する際の虫麻呂の歌もあります。

※藤原四家…藤原不比等の4人の子、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)がそれぞれ、南家、北家、式家、京家の4家を立て、藤原氏の隆盛の基礎となった。

 『万葉集』に虫麻呂の歌は(一部当人かを疑問視するものも含め)、36首詠まれています。内訳は、長歌15首、短歌20首、旋頭歌1首で、長歌の多さが際立っています。虫麻呂は、地方の伝説について感情移入して詠んだ芸術的な作品が多く「伝説歌人」と呼ばれています。歌を聞く人を意識した意図的な思惑も感じられますが、あふれるばかりの感情ゆえとも理解できます。

 また歌風は、叙事性、抒情性に富み、写実的、具象的、現実的、客観的、色彩的、動的などと表現され、「抒情歌人」ともいわれています。その歌には夢想、幻想、幻影、願望、想念、空想、憧憬などが詠みこまれ、耽美的、官能的と言われる一方で、挫折、疎外、孤独、漂泊など虫麻呂の内面を重視する人も多くおり、犬養孝氏は歌の背景となった虫麻呂の心情から「孤愁のひと」と呼んでいます。

※犬養孝(たかし)…日本文学者(万葉学者)。万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、万葉集研究に生涯をささげた。万葉の景観をまもるため、日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立。

他の歌

四年壬申、藤原宇合卿、西海道の節度使に遣わさるる時に、高橋連虫麻呂が作る歌一首并せて短歌

白雲(しらくも)の 竜田の山の 露霜に 色付く時に うち越えて 旅行く君は
五百重山(いほへやま) い行きさくみ 賊(あた)守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと
伴(とも)の部(へ)を 班(あか)ち遣はし 山彦(やまびこ)の 応(こた)へむ極(きは)み
たにぐくの さ渡る極み 国状(くにかた)を 見(め)したまひて 冬ごもり 春さり行かば
飛ぶ鳥の 早く来まさね 竜田道(たつたぢ)の 岡辺(をかへ)の道に 丹(に)つつじの
にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎え参(ま)ゐ出む 君が来まさば

反歌一首

千万(ちよろづ)の 軍(いくさ)なりとも 言挙(ことあ)げせず 取りて来ぬべき
士(をのこ)とそ思ふ

右、補任(ぶにん)の文(ふみ)に検(ただ)すに、八月十七日に東山(とうせん)・山陰(せんいん)・西海(さいかい)の節度使(せつどし)を任ず。

現代語訳

天平四年、藤原宇合卿が西海道節度使として派遣された時に、高橋連虫麻呂が作った歌一首と短歌

(白雲の)竜田の山が 露霜で 色づく時に越えて 旅に行かれるあなたは 幾重にも重なった山々を 踏み分けて進み 外敵を監視する 筑紫に着かれ 山の果て 野の果てをしっかり見守れと 兵士たちを あちこち配属し 山彦の こだまする限り ひき蛙の 這いまわる地の果てまでも 国のさまを ご覧になって (冬ごもり) 春になったら 飛ぶ鳥のように 早くお帰りください 竜田道の 岡辺の道に 赤いつつじが 色美しく映え 桜花が 花咲く時には (山たづの) お迎えに 参りましょう あなたが帰っていらっしゃったら

反歌一首

千万の 敵であろうと とやかく言わず 黙って討取って来られる 男子だと思っています。
右は、補任の記録を調べてみると、八月十七日に東山・山陰・西海の節度使を任命している。

『万葉集』巻第六 971・972
(小学館『新編日本古典文学全集七・萬葉集二』1995)

※東山道(とうせんどう)…近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8か国。
※山陰道(さんいんどう)…丹後・丹波・但馬(たじま)・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・出雲(いずも)・石見(いわみ)・隠岐(おき)の8か国。また、この国々を結ぶ街道のこと。

 この歌は、藤原宇合が天平4年(732)に西海道節度使として旅立つときに、虫麻呂が無事と活躍を願った歌です。ここにみえる竜田山の岡辺の道とは、現在の柏原市峠から青谷にかけての竜田道のことでしょう。虫麻呂は竜田道の景観を好んでいたようです。

春三月に、諸(もろもろ)の卿大夫(きょうだいふ)等の、難波に下る時の歌二首 并せて短歌

白雲の 竜田の山の 滝の上の 小■[木へんに安い](をぐら)の嶺に 咲きををる 桜の花は
山高み 風し止まねば 春雨の 継ぎてし降れば 上枝(ほつえ)は 散り過ぎにけり 下枝(しずえ)に 残れる花は しましくは 散りなまがひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで

反歌

我が行きは 七日は過ぎじ 竜田彦 ゆめこの花を 風にな散らし

現代語訳

春三月、諸卿大夫らの人々が難波に下った時の歌二首 と短歌

(白雲の)竜田の山の 滝つ瀬の上手の 小■[木へんに安い]の嶺に 咲き乱れている 桜の花は 山が高くて 風が止まないので また春雨が 続けて降るので 上の枝は散ってしまった 下の枝に残っている花は しばらくの間は 散り乱れないでくれ (草枕)旅に行かれる君が 帰って来られるまでは

反歌

われわれは 七日以内に帰ってまいります 竜田の神よ どうかこの花を 風で散らさないでください

白雲の 竜田の山を 夕暮れに うち越え行けば 滝の上の 桜の花は 咲きたるは
散り過ぎにけり 含(ふふ)めるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに
見(め)さずとも かにもかくにも 君がみ行きは 今にしあるべし

反歌

暇(いとま)あらば なづさひ渡り 向(むか)つ峰(を)の 桜の花も 折らましものを

現代語訳

(白雲の)竜田の山を 夕暮れに 越えて行くと 滝つ瀬の上手の 桜の花の 咲いていたのは 散ってしまいました 蕾のは 続けて咲きそうです あちらこちら全部の 花の盛りに ご覧になれなくても 何はともあれ あなたのお出ましの時期は この今でございましょう

反歌

暇さえあったら 川を苦労して渡って 対岸の峰の 桜の花でも 折ろうものを

『万葉集』巻第九 1747・1748・1749・1750
(小学館『新編日本古典文学全集七・萬葉集二』1995)

竜田山の桜を詠んだ歌で、風の神である竜田彦を祀る竜田神社に、風で桜の花を散らさないでくれと祈っています。滝は亀の瀬の渓谷のことで、美しい大和川の渓谷や桜を眺めながら、竜田道をゆく情景が目に浮かぶようです。

難波に経宿(やど)りて明日(あくるひ)に還(かへ)り来る時の歌一首 并せて短歌

島山を い行き巡れる 川沿ひの 岡辺の道ゆ 昨日こそ 我が越え来しか 一夜(ひとよ)のみ
寝たりしからに 尾の上の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには
山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる社(もり)に 風祭(かざまつ)りせな

反歌

い行き逢ひの 坂のふもとに 咲きををる 桜の花を 見せむ児(こ)もがも

現代語訳

難波で一泊し翌日帰って来た時の歌一首 と短歌

島山を 行き巡っている 川沿いの 岡辺の道を つい昨日 わたしは越えてきたばかりなのに たった一泊 しただけなのに 尾根の 桜の花は 滝つ瀬を 散っては流れている あなたがご覧になる その日までは 山おろしの 風を吹かせ給うなと 竜田道を越えて行って 風の神として名高い社で 風祭りをしよう

反歌

行き違いの 坂の麓に 咲き乱れている 桜の花を 誰かかわいい女の子に見せてやりたい

『万葉集』巻第九 1751・1752
(小学館『新編日本古典文学全集七・萬葉集二』1995)

芝山航空写真
「島山」と詠まれた芝山(東より)

 大和川が大きく湾曲する位置に芝山があり、あたかも水に浮かぶ島のように見えるので「島山」と呼ばれたのでしょう。竜田道は、写真手前の丘陵を迂回するように通過していたと考えられ、まさしく「島山を い行き巡れる 川沿いの 岡辺の道」です。芝山の手前、大和川右岸に竹原井頓宮と考えられる青谷遺跡があります。

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