河内大橋

2019年7月23日

 古代から大和と河内を結ぶ道は、柏原付近から四方にのびていました。天皇が行幸する際、大和から難波へ竜田道を通るには、大和川をどこかで渡らなければなりません。この柏原市域の中央を流れる大和川は、宝永元年(1704)に、現在の柏原市役所の前で付け替えられるまで北西に流れていました(くわしくは「大和川の歴史」)。今から1,300年ほど前にその大和川に、架かっていた橋が「河内大橋」と考えられています。

 奈良時代の歴史書『続日本紀』などには、「河内大橋」のことは記されておらず、詳しいことはわかりません。そのため「幻の橋」とも呼ばれますが、参考となる史料や発掘調査成果などから、ある程度どのような橋なのか推測できます。

河内大橋遠景
河内大橋周辺とみられる安堂の風景

高橋虫麻呂の歌

 「河内大橋」の手がかりが、『万葉集』のなかの高橋虫麻呂による「河内の大橋を独り行く娘子を見る歌」にあります。

河内の大橋を独り行く娘子(おとめ)を見る歌一首 并せて短歌

しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き
山藍もち 摺れる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす児は 若草の
夫(つま)かあるらむ 橿の実の ひとりか寝らむ 問はまくの
欲しき我妹(わぎも)が 家の知らなく

反歌

大橋の 頭(つめ)に家あらば ま悲しく ひとり行く児に 宿貸さましを

『万葉集』巻第九 1742・1743

歌の解説と万葉集について

 歌の前にその歌が詠まれた事情などを書いた部分を題詞といい、この題詞から奈良時代に「河内大橋」が存在したことがわかります。「河内大橋」というからには、河内にあり、長くしっかりした構造で、「さ丹塗りの」と詠まれていることから丹塗りの立派な橋だったこともうかがえます。

家原邑知識経

 もうひとつ、「河内大橋」との関連が考えられる史料は、和歌山県伊都郡花園村(現・かつらぎ町)医王寺がかつて所蔵していた大般若経です。この中に「家原邑知識経」と通称される奈良時代の写経がありました。現物は昭和28年(1953)の洪水により存在しませんが、幸いにも記録され、内容はわかっています。そこには「大般若経」を写経することになった経緯などが記されていて、河東の化主と呼ばれた万福法師が改修できなかった橋を、花影禅師が引き継いで、天平勝宝6年(754)に完成したとあります。

 写経をしたのは、家原邑(家原里)の人たちでした。この家原邑とは、河内六寺のひとつ家原寺のあった柏原市安堂町付近と考えられます。河東とは、安堂付近を含む大和川の東のことでしょう。この改修されたという橋こそ「河内大橋」と考えられるのです。

 仏教への深い信仰に基づいて、寺院や仏像を造り、そのために私財を提供する人のことを知識といいました。橋の完成祈願のために写経をする行為も知識です。おそらく、橋の改修そのものが知識による寄附、労働協力などによってなされたのでしょう。

医王寺旧蔵『大般若経』巻第四百二十一 識語

竊以、昔河東化主、諱万福法師也、行事繁多、但略陳耳。
其橋構之匠、啓於嚝河、般若之願、發於後身。
此始天平十一年、迄来十二年冬、志未究畢、迹偃松嶺、是以改造洪橋、花影禅師、四弘之願、發於寶樹、一乗之行、繼於般若、汎導汎誨、良父良母、若茲吾家原邑男女幼長、幸預其化、心託本主、謹敬加寫大般若經二帙廿巻、繕餝巳畢、此第四十三帙并第五十二帙也。
仰誓、辱捧一毫之善、咸報四恩之重、伏願、人頼三益之友、家保百年之期、廣者小善餘祐、普及親疎、自他相携、共遊覺橋、奉仕知識伯太造疊賣

現代語訳

(遠藤慶太「天平勝宝六年家原邑知識経の識語について」より)

 ひそかに考えると、昔、河東の化主と称され、お名前を万福法師と申し上げる方がおられた。法師の業績は多々あるのだが、今はその一端を述べるにとどめる。法師はその造橋の技術を大河において発揮され、衆生を彼岸にわたす願を(今生だけでなく)来世へかけておこされた。これは天平11年から12年の冬までのことであり、法師は初志を終えることなく、その足跡を松嶺にとどめられたのである。

 そのため広い橋を改修しようとして、花影禅師は四弘の誓願を仏の橋に起こし、(万福法師の始めた)一乗の行を継ごうとした。(これは衆生を)ひろく導き誨すことであり、(衆生にとって)よき父母のような存在となった。

 ここにわれわれ家原村の男女長幼は、幸いにもその教化に預かることができ、心を本主に託し、つつしんでうやまって大般若経二帙廿巻を加え写し、その装丁が完了した。(分担したのは、大般若経の)第四十三帙と第五十二帙である。

 あおいで誓うことには、かたじけなくもわずかなこの善行を捧げ、みな四恩の重さに報いようとすることをちかう。そして伏して願うことは、人は交わって利益となる三種類の友人に恵まれ、家は長い年月にわたって存続し、広くこの小さな善行がもたらすあまりのさいわいを、親疎の別なくおよぼして、自分も他人もいっしょになって、ともに彼岸のむこうに遊ぶことをねがう。

知識に奉仕した人 伯太造畳売(はかたのみやつこたたみめ)

天平勝宝六年 九月二十九日

河内大橋はどこに?

 河内大橋はどこに架けられていたのかについて、いろいろな説があります。

  1. 大和川と石川の合流点の北、大和川付け替え地点にあたる築留付近。
  2. 柏原市高井田と国分の間、現在の国豊橋付近。
  3. 石川に架かる長尾街道、現在の石川橋付近。

 大和から難波への奈良時代の行幸路は、大和川右岸の山越えによる竜田道を通り、青谷付近から山越えで安堂町付近に下って大和川を渡り、大和川左岸の渋河道をとったと考えられ、2.や3.の位置は、奈良時代の行幸路から離れています。青谷には竹原井頓宮、安堂へと下ったところに智識寺南行宮の推定地があり、安堂で南北にのびる東高野街道の前身道路と交差し、その道沿いには河内六寺が甍を並べていました。このことから行幸路のルートは動かしがたく、2.や3.のような行幸路からはずれた位置に立派な橋を架橋することは考えられません。さらに、「家原邑知識経」の家原邑が築留のすぐ東にあり、「河内大橋」が架橋されていたのは1.築留付近と考えていいでしょう。

河内大橋推定地とその周辺
河内大橋推定地とその周辺

 さらに限定すると、発掘調査にて、大和川両岸の標高14m以上で奈良時代の遺構が確認されています。その14mの等高線が、右岸では安堂遺跡88-3次調査地周辺で西へ、左岸では近鉄道明寺線柏原南口駅周辺で東へ張り出しています。この間は大和川の川幅がもっとも狭く、地質も安定していたと推定されます。大和川付け替え前の延宝3年(1675)「堤防比較調査図」(中家文書)においてもこの地点で川幅が169間(307m)と最も狭くなっています。宝永元年(1704)に、ほぼこの位置で大和川が付け替えられているのもそのためです。ただ、もっとも川幅が狭いといっても「河内大橋」の長さは300m以上とも推定され、当時において相当な規模だったようです。

河内大橋推定値
河内大橋推定地

奈良時代の行幸路

 もともと奈良時代の平城宮から難波宮への行幸は、

  1. 平城京の朱雀大路を南へ下って竜田道へ入る
  2. 竜田大社の前を通って大和川右岸を進み、青谷遺跡付近で対岸へ渡る
  3. さらに石川を渡って大和川左岸を進み渋河道を通る
  4. 平野川との分岐点から平野川に沿って四天王寺付近へ
  5. 四天王寺の東から「難波大道」とも呼ばれる難波宮朱雀大路を北へ進む
  6. 難波宮に至る

という道順がとられていました。しかし奈良時代中頃、天平4年(732)ごろに難波宮が完成すると、

  1. 青谷で大和川を渡らず、大和川の右岸に沿って山中に入って山を越え、
  2. 横尾を通り安堂付近へ下り、河内大橋を渡って渋河道へ

というルートに変更されたと考えられます。このルート上には、直線道の痕跡や切通しもみられます。

 山越えのルートならば大和川を一度渡るだけで済み、橋が架かっていればより便利です。しかし起伏があり、十分な道幅の確保も難しい山越えをあえて選択した理由の一つは、駅制にあると考えられます。

奈良時代の行幸路
奈良時代の行幸路

津積駅家(つつみのうまや)

 生駒山地の西麓を南北に縦貫する東高野街道は7世紀ごろに設置され、平安時代には平安京から四国へと向かう南海道となりました。『延喜式』には南海道の駅として、河内国に楠葉、槻本、津積の三駅が置かれていたと記されています。駅家は、緊急時の連絡等に使用する馬の乗り継ぎ施設です。

 津積駅家の所在地は諸説ありますが、東高野街道と竜田道が交わる柏原市安堂付近とするのが妥当でしょう。この地は、大県郡津積郷・大里郷・鳥坂郷の接する地であり、橋を渡れば船橋廃寺や河内国府があり、北西へは渋河道、南から西へは長尾街道がのびていました。河内大橋推定地のすぐ南東には「馬場先」という小字も残されています。現在の近鉄大阪線安堂駅のすぐ東側です。さらにその南には、駅家周辺に多いとされる「前田」「前畑」の小字もみられます。これは、「ウマヤ」「マヤ」が「前」に転じたと考えられ、駅家を維持するための田畑に伴う地名と考えられています。小字名「馬場先」内での発掘調査では、通常の集落からは出ない墨書土器が出土していることも、公的な施設があった可能性を示しています。ただし、駅家に関連する墨書は確認されていません。

津積駅家推定地と河内大橋
津積駅家推定地と河内大橋

 『日本霊異記』には、奈良時代に平群駅家があったと書かれています。津積駅家も奈良時代にあったと考えると、平群駅家とともに平城宮、難波宮の往来のために設置されたと考えられます。馬を走らせる場合、できるだけ川越えを避けるほうが便利だったのでしょう。そして、河内大橋だけでなく、行幸路新ルートの設置にも知識が協力したのではないでしょうか。それだけ、この地域の知識の経済力や動員力が大きかったと思われます。

※南海道…五畿七道の一つ。紀伊・淡路・阿波・讚岐・伊予・土佐の六か国の称。畿内の南にあって海に沿う諸国とその地域の幹線道路をいう。
※五畿七道…律令制の地方行政区画。山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国と、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道。また、日本全国の意。
※日本霊異記…平安初期の仏教説話集。薬師寺の僧景戒(きょうかい)著。822年(弘仁13)ごろ成立。雄略天皇から嵯峨天皇までの説話を三巻に分け、年代順に配列する。所収話の多くは、善悪の応報を説く因果譚(いんがたん)である。

いつごろ架けられたのか?

 河内大橋は、高橋虫麻呂が歌を詠んだ時点には存在したことになります。虫麻呂は、藤原宇合(うまかい)の従者でした。宇合は、神亀3年(726)に知造難波宮事、つまり後期難波宮の造営責任者になりました。造営が完了する天平4年(732)まで、虫麻呂も藤原宇合に同行したり、命をうけて平城宮と難波宮とを往来したと考えられます。その際に詠んだ竜田山周辺や河内大橋の歌が万葉集に残されています。

 虫麻呂が完成直後の丹塗りの河内大橋を見たとすると、730年前後に難波宮造営にともない往来が激しくなることを見越して架橋された可能性が高いのではないでしょうか。

 『大般若経』の中の「家原邑知識経」には「万福法師が天平11年(739)から12年(740)の冬にかけて橋を造ろうとしたがかなわず、花影禅師が天平勝宝6年(754)に完成させた」とあります。これは万福法師が初めて橋を架けようとしたと読めますが、引き継いだ花影禅師には「改修した」とあり、万福法師も元あった橋が痛んで改修しようとしたのでしょう。そのほうが、高橋虫麻呂の歌とも整合します。そうすると730年ごろには美しかった大橋が、739年ごろにはかなり傷んでいたことになります。この前後に地震や洪水が頻発していたことが『続日本紀』に見えます。

 また、大橋の東たもとにあったとされる安堂遺跡では、大橋に関連する何らかの儀礼を示していると考えられる8世紀中ごろの墨画人面土器が出土した井戸が造られたのは7世紀後半です。そして、7世紀後半に創建された河内六寺の寺院建築技術によって架橋され、これらの堂塔に合わせて橋を丹塗りにしたことも考えられます。

 以上から、安堂遺跡の井戸や河内六寺の創建年代である7世紀後半も、河内大橋架橋の時期の一つの候補と考えられます。しかし、難波宮造営に伴って行幸路が変更され、高橋虫麻呂が歌に詠んだのが架橋間もない河内大橋であったとすると、730年ごろと考えたほうがいいのでしょう。

 よって架橋年代は、7世紀後半と8世紀前半のふたつが挙げられ、史料から考えると、8世紀前半に行幸路変更とともに架橋された可能性の方が高いと考えられます。

墨画人面土器

 口の広がった甕や壷の側面に、鬼のような顔を描いた土器。8世紀ごろに出現し、10世紀はじめにはみられなくなる。ひげのある恐ろしい顔が多い。川や溝からの出土が多く、用途は詳しくわからないが、何らかの祀りにおいて、土器に病気や身体の穢れを封じ込め、水に流したと推測される。例えば土器に紙の蓋を貼り、その隙間から息を吹き込んで穢れを移して流したといったような使い方である。都や官衙(役所)およびその周辺から多く出土している。

安堂遺跡人面土器
安堂遺跡の墨画人面土器

だれが造ったのか?

 古代において、橋は基本的に国によって架けられ、河内大橋ならば河内国府が造橋に関わったと考えるのが普通です。しかし医王寺の『大般若経』の識語には、改修は知識によって行われたとあり、架橋も知識によると考えるべきでしょう。

 造橋(改修)を計画した万福法師も、それを実現した花影禅師も僧侶でした。「河東の化主」の「河」とは大和川でしょう。大和川の東に住まわれた教化の主、つまり人々を教え導く貴い僧侶であった万福法師はおそらく智識寺に住んでいて、知識を組織して造橋を試みたが果たせなかったと考えられます。

 これを引き継いだ花影禅師は、同様に知識を組織し、橋を改修できました。花影禅師も、智識寺もしくは家原寺の僧侶と考えられます。『大般若経』にある家原邑(里)は現在の柏原市安堂町付近で、そこにある安堂廃寺が河内六寺のひとつの家原寺跡と考えられています。

 このように、知識が河内大橋を改修したと考えると、最初に橋を架けたのも知識だったのではないでしょうか。橋は人々の往来のためだけでなく、彼岸へ渡るという仏教的思想の影響も大きく、当時は僧道昭や行基など知識による架橋が盛んでした。この周辺には、行基らの力が必要ない強力な知識集団が存在したと思われます。

 智識寺も蘆舎那仏も知識によって造られました。智識寺以外の河内六寺も知識によって建立された可能性が高いと考えられます。300~400m間隔で接近して並ぶ寺院はあまりに多すぎます。また、これらを建立し、維持管理するほどの生産力は大県郡にはなく、一族の氏寺を建立できるような有力な氏族も見当たりません。大県郡だけでなく、安宿郡や志紀郡、古市郡など、広い範囲の氏族らが知識として建立したのが河内六寺ではないかと考えられます。

 また橋の日常的な管理について、橋は皇族や貴族も利用したため、国府、あるいは津積駅家が行っていたとも推測できますが、それらでは十分な補修等はできず、知識の力に頼らざるを得なかったのではないでしょうか。この地域の知識はそれだけの力をもっていたということです。

 『大般若経』にある知識は、伯太造畳売、牧田忌寸玉足売、私若子刀自、牟文史広人、物部望麻呂、下村主弟虫売、文牟史玉刀自売、馬首宅主売です。ここに挙げられた多くは女性で、造橋工事に参加できず、完成を祈願して写経したのでしょう。また下村主以外は、大県郡ではない他郡を本貫地とする氏族です。このような柏原周辺を本拠とし、渡来系氏族を中心とした知識の人々によって河内大橋は架橋されたようです。

※本貫(ほんがん、ほんかん)…古代において戸籍の編成が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。下村主以外は渋河郡、安宿郡、志紀郡、古市郡など、大県郡周辺を本貫地とする氏族だった。

河内大橋はどんな橋?

長さ、幅

 遺構が確認された標高14mに河内大橋が架けられたとすると、その長さは350mと復元され、あまりにも長すぎます。著名な瀬戸唐橋や宇治橋は百数十m、山崎橋は180間(327m)とされています。現在の柏原付近の大和川の水面は、標高12m程度です。標高13m付近に架橋されたとすると、もっとも狭い川幅に架けられたとしても、橋の長さは300m前後になります。近世の「堤防比較調査図」の川幅も169間(307m)であり、どのように短く見積もっても、250m以上と考えられます。ただ、これだけの川幅があれば、中州などもあったと考えられるため、それを利用していることは十分考えられます。幅は大橋というので一丈(3m)以上、丹塗りの欄干に、柱には擬宝珠も伴っていたのでしょうか。

※瀬戸唐橋…(瀬田の唐橋・せたのからはし とも表記される)は、滋賀県大津市の瀬田川に架かる橋。全長223.7m(大橋約172m、小橋約52m)。京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)の1つとされてきた。架けられた年代は不詳だが、神功皇后の時代には既にあったと言われる。
※宇治橋…646年(大化2年)に初めて架けられたという伝承のある、京都府宇治市の宇治川に架かる橋。
※山崎橋…京都府大山崎町の淀川に架かっていた橋。行基が神亀2年(725年)に架けたと伝えられる。たびたびの洪水で流され、11世紀にいったん廃絶。豊臣政権下で一時復活されたが、その後失われてからは現在に至るまで再建されていない。
構造について

 まったくわかっていません。1988年に瀬戸唐橋で見つかった橋脚遺構(橋脚材が立つ台部が丸太材を縦横に敷いた上に角材を扁平な六角形に組合されている)が慶州月精橋のものと類似し、渡来系技術者によると考えられています。河内大橋周辺にも多数の渡来系技術者の存在が推定され、そのような構造の可能性もあります。

※慶州月精橋…韓国の慶州市に架けられていた。新羅時代の全盛期760年ごろに造られたとされ、慶州市が復元工事を進めていた。新羅中心部の月城と南山を結ぶ大事な橋として利用されたといわれ、橋の礎石だけが残されていた。

慶州月精橋
慶州月精橋

河内大橋イラスト
中州のある河内大橋イラスト(作画:岡野 有幸氏)

安堂遺跡・太平寺遺跡

 河内大橋推定地の東には、安堂遺跡と太平寺遺跡があり、数多くの発掘調査の中でも注目されるのが、安堂遺跡88-3次調査です。株式会社727の敷地内で実施され、井戸や掘立柱などが確認されました。遺構のあった標高14m付近のみ西へ張り出しており、この部分こそ、河内大橋の架橋地点と考えられています。

 確認された井戸は、板材を縦に使用した方形の木枠井戸で、7世紀後半に築かれたと推定されます。井戸内から出土した遺物は8世紀代の土器が中心で、そのなかに墨画人面土器が3点ありました。いずれも土師器の広口甕の体部に墨で人の顔が描かれ、うち1点は口元しかなく、それも擦り消された痕跡が確認できます。墨画人面土器は水辺の祭祀が推定され、河内大橋と関連する可能性もあります。

安堂遺跡の井戸
安堂遺跡の井戸

 太平寺遺跡では、旧国道170号付近の調査で土馬、墨痕のある土師器甕、鹿角製の刀子柄などが出土しています。土馬は馬を象った土製品で、雨乞いの儀式などで使用されたと推定されています。墨痕のある土師器は、墨画人面土器に使用される形の甕で、墨痕記号のようにも見えますが、人面土器かもしれません。刀子とはナイフのような小刀で、鹿の角を加工した小刀の柄です。周辺は十分に調査されていませんが、このように通常の集落では見られないような遺物が出土しています。

土馬

 小型の馬形の土製品。6世紀後半に出現し、10世紀はじめまでみられる。古い時期のものは、飾り馬が多いが、8世紀になると裸馬が多くなり、簡略化される。頭部は、側面が三日月形のものが多く、小型化していく。9世紀にはさらに小さくなり、犬のような形になる。生きた馬の代わりとして水神に供え、雨乞いなどに使用したと考える説や、馬を神の乗り物とし、疫病の神を他界へ送り出したと考える説があり、用途はわからないことが多い。やはり都やその周辺で多く出土し、複数で使用されることが多かったようである。

安堂遺跡の土馬
安堂遺跡の土馬

船橋遺跡

 河内大橋推定地の西には、縄文時代から連綿と続く遺跡として著名な船橋遺跡があります。1992年の大阪府教育委員会による発掘調査で、奈良時代の遺物が旧奈良街道下で確認されています。遺構は検出されていませんが、遺物が出土する層位は、標高14~15mです。遺跡の範囲は近鉄道明寺線柏原南口駅付近でもっとも東へと張り出しており、この付近に河内大橋が架かっていたと推定されます。

 船橋遺跡は大和川左岸に位置していましたが、宝永年間の大和川付け替え工事によって川床となった後は、遺構・遺物の流失が続いています。数回の発掘調査で得られた資料も多数ありますが、良好な資料の多くは表面採集資料です。多数の採集資料には、とりわけ弥生時代の土器が目立ちますが、奈良時代前後の資料も少なくありません。たとえば、和銅開珎やその鋳型とされるものも出土しており、ここが銭貨を鋳造する役所の河内鋳銭司(じゅせんし)跡とも推定されています。あるいは、河内国府だったという説もあります。

 また柏原警察の南西には船橋廃寺とされる古代寺院跡もあり、かつては礎石もあったようですが、関連する遺構等は十分に確認されていません。それでも多数の奈良時代の蓮華文軒丸瓦や重圏文軒丸瓦や、飛鳥寺と同范の瓦が出土しており、寺院の創建は7世紀前半に遡ると考えられています。

 そのほかにも、円面硯とよばれる大きな硯や土馬などが出土しており、やはり普通の集落とは異なるようです。

船橋遺跡
船橋遺跡

河内大橋の姿

 竜田道による山越えから河内平野へ降りたところに河内大橋はありました。奈良時代のその美しい景色を想像してみてください。遠くに上町台地が見え、難波宮や四天王寺も見えます。眼下には雄大な大和川が北へと流れ、その手前には寺院が甍を並べるように林立しています。朱と緑、屋根瓦の黒に彩られた寺院の建物です。山裾に連なる寺院の堂塔は見るものを圧倒し、都に劣らない仏教世界が広がっていました。そして、大和川に架かる丹塗りの「河内大橋」。この景観に感動し、山越えの疲れも吹き飛んだことでしょう。

 しかし、その橋もわずかの間に流され、それを再建したのはおそらく知識の人たちでした。万福法師や花影禅師のように、中央の史料には残らない僧侶たちも多数いました。仏教を信仰し、寺院や仏像を次々に造っていった知識こそ、河内の仏教文化を支え広めていった人々だったのです。

 この知識らは、この大県郡の山裾に、仏教による理想世界を造ることを目指していたのではないでしょうか。その中心となる智識寺には、聖武天皇が礼拝した蘆舎那仏がありました。蘆舎那仏は華厳経に基づき、世界の中心となるべき仏像ですが、平城宮で華厳経の講説が始められるのは、このあとのことです。それよりも早く、華厳経を理解し、蘆舎那仏を造立する人々が、この地に存在したのです。単なる仏教信仰ではなく、仏教の研究においても、最先端の地であったことがわかります。このように河内大橋は、この地域の知識や古代寺院をはじめとした華やかな仏教世界とともに考えるべきでしょう。

 その後、都が長岡京、平安京へ遷り、この地を天皇や貴族が通ることもなくなりました。それらを支えていた有力氏族らも次々と平安京周辺へと移ったことでしょう。経済的基盤がゆらぎ、目的もゆらぐと、知識は急速に衰退したようです。応徳3年(1086)に知識のシンボルである智識寺が倒壊したことは、この地の知識の倒壊でもありました。華やかな歴史は100年余りで幕を閉じたのです。

 現在、私たちが河内大橋の存在を知れるのも、高橋虫麻呂の歌があってのことです。もしこの歌がなければ、『大般若経』から大橋の存在を考えることは難しかったでしょう。この歌によって、私たちは丹塗りの河内大橋や、それを渡る娘子の姿に、この柏原の華やかな古代のひとこまを思い浮かべることもできます。虫麻呂の歌心と、その歌心を刺激した美しい娘子に感謝です。

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