家原寺

2018年10月21日

 家原寺は、柏原市安堂町の安堂廃寺と推定されています。河内六寺最北端の三宅寺を参拝した後、折り返して南下し、智識寺南行宮の南に位置する家原寺に参拝したと思われます。家原寺は「いえはらでら」と呼ばれていますが、「えばらじ」とも読め、そうすると行基の誕生した家原寺と同じ名称となります。

※行基の家原寺(えばらじ)…堺市西区にある高野山真言宗の寺院。704年に行基が生家を寺に改めたのが始まりとされる。

 安堂廃寺の範囲は150m四方とされますが、これほど大規模とは考え難く、一辺約60m四方の小区画の中に金堂を西、塔を東に配した法起寺式の伽藍配置が考えられ、塔の心柱礎石が出土しています。この塔の礎石は京都に運ばれたようです。また金堂・塔の北側にあったとされる講堂については、礎石の幾つかが残されているようです。

法起寺式伽藍配置図

 またここから北西へ200m離れた安堂遺跡では、塩や米などの荷札に使われたと思われる木簡が発見され、「茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)」の宅、もしくは「智識寺南行宮」の推定地とされています。

調査

 昭和59年(1984)の調査では、かつて塔心礎が出土した位置のすぐ東側で、近世に造られた池の跡が確認されました。池の護岸の石垣中に礎石が含まれており、この場所では伽藍の旧状を留めていないことが分かりました。心礎も石垣に転用されたものであれば、伽藍配置を一から見直す必要があります。

家原寺調査
調査の様子

池の石垣画像
池の石垣

 ただし、池の埋土からは多量の瓦も出土しており、この近辺に塔など主要伽藍が存在したことは間違いないようです。周辺には今も礎石が残っており、礎石の一つを史跡高井田横穴公園に展示しています。

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礎石

 出土している安堂廃寺の瓦には、素弁蓮華文・重弁蓮華文・単弁蓮華文・複弁蓮華文軒丸瓦など、同じ大県郡の太平寺廃寺や鳥坂寺跡と類似するものが多いようです。重弁形式の軒丸瓦が中心ですが、素弁のものには花弁の肉が薄くて弁端が反り返るものと、花弁が肉厚なものがみられます。7世紀中頃に創建され、後半から8世紀にかけて伽藍の整備が進んだと思われます。また南都七大寺の一つ、大和・大安寺の鬼瓦と同じ鬼瓦が出土しています。

由来

 河内六寺の山下寺、大里寺、鳥坂寺という名称は、当時の郷名や地名に由来するとみられ、三宅寺もその可能性があります。家原寺の「家原」について、平安時代に編纂された『和名類聚抄』や『新撰姓氏録』に記載はなく、周辺に字名もありません。

 しかし、医王寺(和歌山県)旧蔵の『大般若経』に「家原邑」「家原里」とあり、平城京跡からも「大県郡家原」と記された木簡が見つかっています。大県郡内に「家原郷(里)」があったと考えられ、安堂付近の可能性が高いようです。奈良から平安時代にかけて都の移動などにより、この地域の村落の構成に変化があったのかもしれません。

 また、『聖徳太子伝略』の推古27年(619)の条に「茨田寺(まんだでら)の東から北の大県山の西下を望み、百年後に一人の愚僧が寺を建て、大きな仏像を造ると太子が予言した」と記されています。この史料の信頼性は不確かですが、大きな仏像のある寺が智識寺であるとすると、その南にあった茨田寺とは家原寺と考えられます。智識寺の近くに茨田宿禰弓束女の宅があったことと併せ考えると、「茨田寺」という氏族名から、次第に郷名に由来する「家原寺」と呼ばれるようになったと考えることもできます。

※『大般若経』…俗に「家原邑知識経」と呼ばれ、和歌山県伊都郡花園村新子の観音堂に伝わった。天平勝宝6年(754)の日付と家原邑、家原里などの地名、そこに住む人々の名前が記されている。現存せず。

※『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)>…平安時代中期に作られた辞書。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。

※『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)…平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述した。

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