わずか8か月の大工事~10~

2018年11月18日

高取藩

 大和国高取藩は、今の奈良県高市郡高取町にあり、高取城を中心とした藩でした。天正年間に本多利久が高取城の整備・拡張に努め、寛永17年(1640)に植村家政が2万5千石で藩主となったあと、家貞、家言、家敬(いえゆき)とつづき、家貞の代に2万2千石、家言の代に2万5百石となりました。その後、九代目家長のときに2万5千石に戻り、植村家は明治まで藩主を務めました。

 四代目家敬は、延宝8年(1680)に分家の植村政成の子として生まれましたが、三代目家言の亡くなる直前に養子となり、元禄9年(1696)5月に藩主となりました。そして、宝永元年(1704)に大和川付け替え工事の手伝いを命じられました。2万石の藩にとって、付け替え工事の手伝いはきびしいものだったでしょう。

 高取藩は、柏原藩とともに宝永元年(1704)の6月28日に手伝いを命じられました。その後のくわしい記録はありませんが、柏原藩とともに姫路藩担当分の入用金1,378両3歩の負担を命じられています。普請箇所の記録も確認できませんが、西除川の付け替えや大乗川の付け替えなどを担当したのではないかと考えられます。

 また、『柏原藩藩政日記』の10月7日に、「植村右衛門佐様奥様去頃御死去之由」とあり、藩主家敬の妻が付け替え工事中に亡くなったようです。そうであるならば、付け替え工事が進められる中で、藩主の妻が亡くなり、高取藩は大混乱したことでしょう。

 高取城は、建物は残っていないものの、石垣等は現在もよく残っています。お里沢一で有名な壷坂寺から登ることもでき、古い町並みが残っている城下へ下る遊歩道も整備されています。高取の町は、とりわけひな祭りのころには賑わいをみせます。

 これら手伝い普請を命じられた藩をめぐってみて、こんなに遠くから見ず知らずの地の工事を手伝うことになり、多額の費用負担で財政難に陥り人々を苦しめたことを考えると、大和川付け替え工事の違う面を見る思いがします。

(文責:安村俊史)

高取城天守跡
写真:高取城天守跡

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