わずか8か月の大工事~8~

2018年11月4日

岸和田藩

 和泉国岸和田藩は、大阪府岸和田市にあった藩です。豊臣秀吉のときに、中村一氏が岸和田城主になったことに始まります。中村氏のあと小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640)に、摂津高槻(大阪府高槻市)から岡部宣勝が6万石で藩主となりました。宣勝のあと、行隆、長泰とつづき、明治まで岡部氏が藩主を務めました。行隆の代に5万3千石となり、その後明治まで石高は変わりませんでした。

 貞享3年(1686)に藩主となった岡部三代目の長泰のときに、岸和田藩は大和川つけかえ工事の手伝いを命じられました。長泰は貞享3年(1686)から享保6年(1721)まで藩主を務め、享保9年(1724)に75歳で亡くなっています。有名なだんじり祭りは、つけかえ工事前年の元禄16年(1703)に、京都の伏見から稲荷社を三の丸に勧請したことから始まったと伝えられています。ほかにも、河内金剛寺(河内長野市)など社寺の修築、朝鮮通信使の接待役などを務めた人物でした。

 付け替え工事は、幕府担当部分の西側、川辺村から城蓮寺村までの23町(2.5km)の工区を担当しました。瓜破村周辺は台地となっており、約2間(3.6m)ほどの掘り下げが必要でした。城蓮寺村では、麦の刈り取りまで待って欲しいという村人からの願いがあったにもかかわらず、工事を急いでいたため、かなりの麦が植わったまま工事が進められたという記録があります。城蓮寺村は三田藩担当部分との境界にある村ですが、岸和田藩担当部分での出来事だったと思われます。

 岸和田城は、今も美しい姿を見せてくれます。城内の資料館には、岡部氏に関する史料が展示され、長泰の肖像画もあります。近くのだんじり会館でも、だんじりを始めた藩主として、岡部長泰が取り上げられています。ところで、岸和田のだんじり祭りは、大和川付け替え完成を祝って始まったという根強い説があります。しかし、付け替え前年に始まっていたという記録があること、いくら岸和田藩とはいえ、1万両、現在の20億円程度の出費がありながら、盛大な祭りをする余裕があったとは信じがたいのですが。

(文責:安村俊史)

岸和田城
写真:岸和田城

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