山下寺

2018年9月23日

 智識寺の次に記載されている山下寺は、大県4丁目にある健康福祉センター「オアシス」東方の「大県南廃寺」がその遺跡にあたると考えられています。大県廃寺、鳥坂寺跡での寺院名を記した墨書土器の発見、『続日本紀』にある河内六寺の記載順を考慮すれば、大県南廃寺が山下寺であるという解釈は順当と思われます。

発掘調査

 昭和57年(1982)の発掘調査で、大量の瓦とともに大規模な整地層が確認されました。しかし主要伽藍に関連する遺構は確認されず、調査地のすぐ東側に主要伽藍が存在すると考えられます。寺域は、この調査で瓦が多く出土した地点から東へ100m四方程度の範囲が推定されています。斜面を削って造成されたらしく、標高も比較的高い約40mです。周辺には「堂の内」「山下」などの字名が残っていますが、調査地のすぐ南側は谷筋になっていて、金堂や塔などいくつもの建物が立ち並んでいたと考えるにはかなり狭い土地です。

調査地に残る字名
昭和57年の調査地(赤)と周辺に残る字名

 大県南廃寺の瓦から具体的な建物との対応関係は分かりませんが、市内の他の寺院遺跡と比べると、軒丸瓦の文様の種類や文様毎の数量、軒丸瓦と軒平瓦の組み合わせなど、よくまとまった内容をもっています。

 軒丸瓦には素弁蓮華文、2種の単弁蓮華文、重弁蓮華文、複弁蓮華文、忍冬蓮華文、細単弁蓮華文などがあります。もっとも多いのは、弁に子葉と稜線をもつ単弁蓮華文軒丸瓦と、弁内の忍冬文が窪んでいる忍冬蓮華文軒丸瓦です。軒平瓦には四重弧文、素文、均整唐草文などがあります。

 これらの瓦は、大和や南河内の寺院と繋がる内容をもっていますが、単弁や忍冬文の代表的な山田寺、西琳寺、法隆寺のものからみると、独自に幾分変形しており、時期的にも若干新しい7世紀中頃から後半を示す瓦と思われます。また、これらが出土した調査地とは別地点で、緑釉丸瓦も採集されています。

忍冬文…仏教系文様。葉文が扇状に広がった模様(パルメット)。忍冬はスイカズラ科の植物で、葉の一部が越冬するので、この名がある。飛鳥・奈良時代に流行した。


単弁蓮華文軒丸瓦

墨書土器

 昭和57年(1982)の調査地から西へ250m、東高野街道(国道170号線)に隣接する地で、山下寺に関連するとされる墨書土器が出土しています。

 平成5年(1993)の調査では、井戸の中から破損していない土師器の杯が2点出土しました。2点の杯の高台部分には、それぞれ「尾」「張」と墨書きされており、おそらく2点あわせて「尾張」と読むべきものと推測されます。その1点の「尾」と書かれた杯の側面には、「山下脊川」と墨書きされています。山下脊川とは、調査地の南に東西にのびている「岩崎谷」を指し、この周辺が「山下」と呼ばれていたことを示すと考えられます。「尾張」の意味は不明ですが、人名か地名でしょう。調査地の南方、安宿郡には尾張郷があります。ただしこの杯は10世紀ごろのもので、山下寺と直接結び付くものではありません。

「尾張」椀
「尾」「張」と墨書きされた土師器の杯

山下寺山下脊川椀
「尾」の杯の側面にある「山下脊川」の墨書き

いつまで存在したか

 昭和57年(1982)の調査では、瓦とともに青磁や白磁もかなり出土しており、また周辺の丘陵や山腹には掘立柱建物、瓦を利用した基壇状の遺構、土釜を用いた地鎮めの祀りの痕跡などもみつかっています。山下寺は奈良、平安時代を通じてかなり有力な寺院であり、少なくとも中世の頃までは法灯を継ぐ何らかの建物が存在したのでしょう。

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