三田家と寺田家10

2018年5月6日

文化の興隆と今町

 三田浄久と子の久次によって、今町を中心に俳諧などの文化が広まりました。その後も、江戸時代を通じて各地との交流があったため、文化的な活動が続けられていたと考えられますが、顕著な成果を示す史料は残っていません。再びこの地の文化が注目されるのは、幕末のことです。

 幕末のこの地の文化を牽引したのは伴林光平です。光平は文化13年(1813)に志紀郡林村(現在の藤井寺市林)の尊光寺に生まれ、八尾成法寺村の教恩寺の住職となったころに、河内の文化サロンとも呼ぶべき仲間を集めていました。弘化2年(1845)ごろから文久元年(1861)までの十数年間、柏原の人々は光平と親しく交わりました。光平の門人として、今町の三田助十郎と三田七左衛門、柏原村の松本庄右衛門、築留の畑中六兵衛と高田清三郎、法善寺村の田中兵左衛門と大谷重助、大縣村の小山源左衛門、安堂村の安尾三五郎の名がみえます。いずれも庄屋などを務める村の有力者です。光平社中の秀詠を集めた『垣内摘草(かいとのつみくさ)』(安政6年・1859)には、その門人たちの歌が納められています。三田家には光平の書いた短冊が多数残されていますが、光平は三田家に宿泊することが多く、三田家では短冊を書くのが好きな光平に、きりがないので短冊を与えるなと家人に命じていたという話も伝わっています。

 また、明治5年(1872)に市立柏原小学校の前身となる柏原郷学校が建設される際には寺田家が土地を提供しています。このように、三田家・寺田家は、文化や教育面でも地元に貢献していました。

 そのような文化面だけでなく、柏原船の営業や奈良街道の交通に関わって、経済面でも今町が柏原村の発展に大きな役割を果たしていました。また、奈良街道近くに鉄道が開通し、柏原駅が設置されたのも大きなことでした。そして、柏原村は明治22年に堅下村とともに柏原町となり、昭和33年(1958)に柏原市となりました。今年(平成30年・2018)は柏原市制60周年となります。この記念すべき年に、市制60周年記念として「今町」をとりあげた企画展を実施できたことは、意味あることだと考えています。

(文責:安村俊史)

柏原村屋敷絵図
写真:柏原村屋敷絵図・宝暦8年(1758)【柏元家文書
   赤線内が三田家、緑線内が寺田家

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