三田家と寺田家5

2018年4月8日

三田浄久の活躍

 三田家の初代三田浄久(1608~88)が、武家であった水野家の血を引くことは、「2.三田家は武家だった」で述べたところですが、浄久は大坂組の一人として、寛永17年(1640)から柏原船の営業に参加しました。浄久33歳のことです。2艘の船の船持ちとして、柏原船で運ぶ肥料などの商いに従事していましたが、商人としてだけではなく、文化人としてもよく知られていました。

 浄久は俳人・松永貞徳の門下で、俳句だけでなく狂歌も好みました。浄久の交遊は広く、同門の北村季吟、安原貞室や談林派の西山宗因、井原西鶴らとも深く交わりました。また、地元の人々にも俳諧を広め、「河内俳壇」と呼ばれるほどになりました。

 浄久は「大文字屋」の屋号で手広く商売を行い、「七左衛門」と名乗りました。そして、次男の久次に「七左衛門」を譲って隠居してからは、「庄左衛門」を名乗るようになりました。庄左衛門は、大坂夏の陣で討ち死にした浄久の父と同じ名です。大坂の陣後には豊臣方の残党の取締りが厳しかったのですが、このころには庄左衛門を名乗ってもとがめられることはなかったのでしょうか。隠居して以降、浄久はますます文化人として活躍し、やがて『河内鑑名所記』を著すことになります。

 元禄元年(1688)11月27日、浄久は81歳で亡くなり、大坂天満の妙福寺に葬られました。妙福寺を開いた日容上人は、水野庄左衛門・庄兵衛の弟で、浄久にとっては叔父にあたる人でした。大坂夏の陣後に幕府からの追及を避けるため、庄左衛門が所有していた水野家の文書類は、この妙福寺に預けられていたようですが、同寺の火災によって、すべて焼失してしまったということです。そのため、庄兵衛の手元にあったわずかな文書のみが現在に伝わることになりました。

 『西鶴名残之友』には、浄久のことを「河州柏原の里に浄久と名乗て無類の俳諧好、老のたのしみ是ひとつと極めて」と書かれています。浄久は書物の収集も盛んで、大坂の本屋がたびたび浄久のもとに本を売りに来ていたという記録があります。また、蔵書目録から膨大な書物を所蔵していたこともわかっています。本屋にとっては、大きな得意先だったようです。しかし、後にこれらの書物の大半が処分され、あまり現存していません。

(文責:安村俊史)

柏原船だまり跡
写真:柏原船船だまり跡

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