三田家と寺田家2

2018年3月28日

三田家は武家だった

 三田家の初代・三田浄久は、柏原船の営業に参加するために寛永17年(1640)に大坂伏見の呉服町から柏原村に移り住むことになりました。三田浄久は、「さんだきよひさ」と読み、一般には「じょうきゅう」と呼ばれています。その浄久の父は水野庄左衛門といい、武士でした。庄左衛門の父は水野如雲といい、福島正則に仕えていました。それ以前の水野家の由緒は残念ながらわかっておらず、話は水野如雲から始めることになります。

 如雲は広島城主であった福島正則に仕えていました。正則から如雲に宛てた文書が残っており、その書き方から、正則が如雲に対して相当な敬意を払っていたことがわかります。どうやら客分のような扱いを受けていたようです。もしかすると、水野家は尾張あたりで織田信長と関わるような家筋だったのかもしれません。

 如雲の長男が庄左衛門で、三男に庄兵衛という人物がいました。大坂夏の陣の際、庄左衛門は豊臣方として大坂城へ、庄兵衛は徳川方として正則のもとに残ることになりました。その結果、庄左衛門は大坂城で戦死、その子浄久は家臣に助けられて母方の実家があった堺へ逃れ、母方の三田姓を名乗ることになりました。浄久8歳のことです。その後、浄久は大文字屋七左衛門の名で大坂に出て商売に成功し、柏原船の営業に参加することになりました。

 一方、庄兵衛は福島正則が元和5年(1619)に城普請などが原因で改易されたのちに、紀伊徳川家に仕えることになりました。しかし、嗣子がなく、万治2年(1659)に水野家は断絶することになりました。そのため、庄兵衛のもとに残されていた古文書が浄久に届けられ、その一部が現在まで保管されてきたことから、以上のような三田家の歴史がわかるのです。これらの史料は、三田家の出自や由来を明らかにする「水野家文書」として、平成27年(2015)に柏原市有形文化財に指定されました。

(文責:安村俊史)

三田家所蔵水野家文書
写真:三田家所蔵水野家文書

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