安福寺の夾紵棺10

2018年3月20日

夾紵棺の今後

 安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の一部なのかどうか。まず、聖徳太子の夾紵棺の実物を確認することが必要となります。現在のところ、叡福寺には夾紵棺の破片さえ伝わっていないようです。明治12年に叡福寺北古墳で採集された夾紵棺は、そのまま石室の中にあるのでしょうか、それとも宮内庁が所蔵しているのでしょうか。これが確認できれば、明らかにできます。また、安福寺と叡福寺の関係についても究明していかなければなりません。史料に夾紵棺の授受について記したものがないかどうか、探索する必要があります。

 次に、夾紵棺の年代です。猪熊兼勝氏は、安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺であるとしたうえで、これは7世紀後半に改葬された際に新しく造られたものだとされています。石室の年代が7世紀後半とされることとも整合すると考えておられます。

 しかし、叡福寺北古墳の石室の年代は、7世紀前半ではないかと思います。河南町のシシヨツカ古墳は6世紀末の横口式石槨墳で、花崗岩の切石を使用しています。来目皇子墓と考えられる羽曳野市塚穴古墳が花崗岩切石による横穴式石室です。来目皇子は聖徳太子の実の弟で、新羅遠征の最中の603年に筑紫で亡くなっています。その兄の聖徳太子墓が7世紀前半に花崗岩切石による石室であったとすると、花崗岩の切石技術が継続的に採用されていたと理解できます。むしろ、来目皇子墓や聖徳太子墓の年代を7世紀後半に下げるほうが不自然でしょう。

 そして、夾紵棺も7世紀前半と考えられないでしょうか。シシヨツカ古墳から漆塗籠棺が出土しており、このころに漆塗りの技術が日本に入っているのは間違いありません。もちろん、渡来人によってもたらされたのでしょう。その際に、最高の技術で聖徳太子の夾紵棺がつくられたと考えてはどうでしょう。そして、夾紵技術が伝わった当初につくられたのが聖徳太子の棺で、その後簡略されていくなかで、牽牛子塚や阿武山古墳の麻を使用した夾紵棺がつくられ、やがて高松塚古墳にみられるような漆塗木棺への簡略化を考えたほうがいいのではないでしょうか。

 いずれにしても、研究課題は尽きません。まず、この夾紵棺を保存していくことが第一です。これからしばらくは、当館の特別収蔵庫で保管していくことになっています。まずは、この機会に実物を見ていただいて、あれこれと思いをめぐらせてみてください。

(文責:安村俊史)

夾紵棺推定復元図
図:夾紵棺推定復元図(柏原市立歴史資料館『群集墳から火葬墓へ』より)

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