安福寺の夾紵棺7

2018年2月26日 (文化財課)

叡福寺北古墳(聖徳太子墓)

 安福寺の夾紵棺は、聖徳太子(厩戸皇子)の棺ではないかという説があります。そこで、聖徳太子の古墳とされる叡福寺北古墳についてみておきたいと思います。まず、叡福寺は南河内郡太子町にある寺院で、上太子(かみのたいし)とも称されます。寺伝によると、推古天皇が太子の墓を守護するために建立したといい、聖武天皇が伽藍を整備したと伝えられています。しかし、実際に伽藍が整備されたのは、もう少し後のことと考えられています。この叡福寺の伽藍北側に聖徳太子墓とされる古墳があります。古墳は、叡福寺北古墳あるいは上城古墳とも呼ばれ、宮内庁によって聖徳太子の磯長墓に治定されています。ここでは、過去の記録や、宮内庁によって実施されている墳丘測量や墳丘の調査結果からみていきたいと思います。

 墳丘は三段築成の円墳で、東西長約53m、南北長約43mの楕円形平面と考えられます。横穴式石室は、明治12年(1879)に内部の様子を記録した『聖徳太子磯長墓實檢記』がまとめられたのちに封鎖されて、現在は立ち入ることはできません。しかし、過去には自由に内部に入れる時期もあったようです。『實檢記』によると、石室は丁寧に加工された花崗岩切石によって構築された「岩屋山式石室」と考えられます。「岩屋山式石室」は、明日香村の岩屋山古墳を標識とする、花崗岩切石積みの横穴式石室のことです。記録によると、玄室の長さが5.45m、幅3m、高さ3mで、羨道は長さ19.2m、幅1.8mとなる大規模な石室のようです。岩屋山古墳と構造はほぼ一緒ですが、規模は叡福寺北古墳のほうが大きくなります。

 玄室内には、奥壁に沿って1基、玄室の手前側壁に沿って2基の棺台があり、奥が聖徳太子の母の穴穂部間人皇女、手前向かって右側が聖徳太子、左側が妃の膳菩岐々美郎女の棺台とされています。

 聖徳太子の没年は、推古30年(622)と考えられますが、岩屋山式石室の年代を7世紀後半と考える研究者が多く、そのころに改葬されたのではないかと考える研究者もいます。しかし、聖徳太子の没年に近い7世紀前半でいいのではないかと思っています。

(文責:安村俊史)

叡福寺北古墳横穴式石室

図:叡福寺北古墳横穴式石室の図(宮内庁陵墓課『書陵部紀要』第60号より)

【特集展示のご案内】
平成30年1月4日(木)から3月21日(水)まで、特集展示「安福寺の夾紵棺」を開催しています。ぜひご覧ください。

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