~和気清麻呂の大和川付け替え9~

2017年11月20日 (文化財課)

なぜ付け替え工事ができたのか

 和気清麻呂は、奈良時代の行幸路を破壊するような大和川付け替え工事に、どうして着手できたのでしょう。いくら河内の洪水を防ぐためとはいえ、普通ならば、古くからの道路、それも天皇が行幸に利用する道を破壊することは考えられないでしょう。

 それを可能にしたのは、長岡京への遷都でしょう。延暦3年(784)の長岡京遷都に伴って、難波宮の主要な建物が長岡宮へ移築されていることがわかっています。これは、難波宮の瓦が長岡宮から大量に出土すること、難波宮と長岡宮の朝堂院の規模が一致することなどから、難波宮の建物そのものが移建されていることがわかっています。つまり、難波宮は完全に廃止されたのです。付け替え工事から4年前のことです。

 そして、長岡京遷都に伴って、舟運が重視され、山崎など淀川の津が整備されるようになりました。相対的に難波津の重要性は低下したことでしょう。遷都によって、平城宮から難波宮への行幸路も不要となりました。もちろん道そのものが不要となったわけではないでしょうが、幅の広い直線道路は不要となったのです。それゆえに渋河道の一部を破壊するような付け替え工事が可能となったのでしょう。

 そのように考えると、付け替え工事そのものが、河内の洪水防止だけを目的としたものではなく、むしろ淀川のことを考えていたのではないだろうかと思えてきます。大和川のもたらす土砂によって淀川河口は絶えず河床が浅くなっていましたが、淀川の舟運を確保するためには、大和川を淀川から切り離すことが理想だったのでしょう。長岡京遷都や平安京遷都を画策した清麻呂ならば、淀川筋のことを重視していたのも当然です。そして、摂津の長官としての地位を利用すれば、大和川の付け替え工事への着手も可能だったのでしょう。

 この大工事に膨大な費用を費やしながら失敗に終わったにもかかわらず、なんら責任を問われることなく、続いて平安京遷都を画策した清麻呂の姿をみていると、桓武天皇から篤い信頼を得ていたことが理解できるのです。

(文責:安村俊史)

明治の地図
図9:明治の地図。奈良街道が推定の付け替え痕跡を通っている。

茶臼山の河底地
写真9-a:茶臼山の河底池。

茶臼山西の海食崖
写真9-b:茶臼山西の海食崖。奈良時代には、ここまで海が迫っていた。

【特集展示のご案内】
平成29年9月12日(火)から12月24日(日)まで、特集展示「和気清麻呂の大和川付け替え」を開催しています。

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