~天井川と洪水5~

2017年10月17日

激しくなる洪水

 江戸時代になって天井川化が進むとともに、洪水も多くなったようです。とりわけ、洪水は玉櫛川筋に集中していました。寛永15年(1638)の吉田川筋堤切れに始まり、貞享3年(1686)までの約50年間に、玉櫛川筋で8回の洪水記録があります。なかでも延宝2~4年(1674~1676)の洪水被害が大きく、延宝2年には35箇所、3年には19箇所、4年には10箇所で堤防が切れています。

 このあいだに、久宝寺川筋では慶安3年(1650)に八尾木村(八尾市)、貞享3年(1686)に荒川村(東大阪市)で各1箇所の堤切れがあったのみで、玉櫛川筋と久宝寺川筋の洪水被害に大きな差があったことがわかります。これが、貞享4年(1687)以降に、久宝寺川筋の村々が大和川付け替え運動から離脱するようになった大きな原因だったのでしょう。

 天和3年(1683)の幕府による大和川付け替え検分に同行した河村瑞賢は、意見を求められると、「淀川河口の水の流れをよくすれば、大和川の付け替えなど必要ない」と結論付け、天和4年(1684)から貞享3年(1686)にかけて、安治川の開削など淀川河口の改修工事を行いました。幕府は、この工事で大和川の洪水は減少すると考えていたようです。しかし、貞享3年にも洪水がおこっています。そのため、元禄11年(1698)から翌年にかけて瑞賢の二期工事が行われました。

 しかし、二期工事のあと、元禄13・14年(1700・1701)にも河内では大規模な洪水がおこっていたようです。中甚兵衛の今米村(東大阪市)では、ほとんど米が収穫できないほどの被害がありました。この洪水が、大和川の付け替えを決定する一つの原因にもなったようです。このように、大和川の洪水被害は17世紀(江戸時代前期)になると、急に激しくなったようです。

(文責:安村俊史)

堤切所之覚附箋図
図:「堤切所之覚附箋図」貞享4年(1687)(中家文書)

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