~和気清麻呂の大和川付け替え2~

2017年9月25日

奈良時代の大和川

 それでは、和気清麻呂が大和川の付け替えを決断するほど、奈良時代の大和川は洪水を繰り返していたのでしょうか。『続日本紀』から、洪水記事を拾い出してみましょう。

天平勝宝2年(750)5月24日

 京中に大雨が降り、川の水が溢れ出た。また、伎人堤、茨田堤などが所々で決壊した。

天平宝字6年(762)4月8日

 河内国狭山池の堤が決壊した。のべ八万三千人を動員して修造した。

天平宝字6年(762)6月21日

 河内国長瀬の堤が決壊した。のべ二万二百余人を動員して修造した。

宝亀元年(770)7月22日

 志紀・渋川・茨田などの堤を修繕した。のべ三万人余りであった。

延暦3年(784)8月5日

 京中に大雨が降って、人民の家屋が壊れた。詔して、使いを東西の京に派遣して物をめぐみ与えた。

延暦3年(784)9月10日

 河内国茨田郡の堤が十五箇所で決壊したので、のべ六万四千人余りの人に食粮を与えて築造させた。

延暦4年(785)9月10日

 河内国が「洪水で水があふれ、人民は流されて船に乗ったり、堤の上に仮住まいしたりしており、食糧が欠乏し、苦しみは大変なものであります」と言上した。そこで、使者を派遣して見廻らせるとともに、物をめぐみ与えた。

 これらの記録だけでは、奈良時代にとくに洪水が多かったかどうかはわかりません。当然ながら、記録に残らない洪水もあったでしょう。伎人(くれひと)は大阪市平野区喜連(きれ)付近かと考えられ、長瀬・志紀・渋川などと合わせ考えると、長瀬川と平野川が分流するあたりで洪水が多かったことが推定されます。これは平野川が大和川の本流となっていたことによるのでしょう。なお、茨田郡の堤とは、淀川の堤防のことかと思われます。

(文責:安村俊史)

茶臼山の河底池
写真2:和気清麻呂の付け替え痕跡と推定される茶臼山の河底池

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