太平寺・安堂古墓

2017年10月8日 (文化財課)

 昭和58・59年(1983・84)に、市立第二体育館(現・オーエンス第二アリーナ)建設に先立って発掘調査が行われ、火葬墓と考えられる遺構が4基確認されました。そのうち炭・灰で埋められているにもかかわらず、火葬骨が認められない、あるいは存在してもごく少量の火葬墓があり、それらは「火葬墓に伴う儀礼的な土坑」の可能性があります。このような遺構は9世紀以降に多くなるようです。

1号墓

 平面は半円形、深さ54cmの底には灰白色砂質土が敷かれ、その上に骨蔵器が置かれていました。骨蔵器は緑釉陶器の椀に須恵質の壷が重ねられ、中から人骨片、ガラス玉、若干の土器片、砂が出てきました。これらは壷に入れた後に椀で蓋をし、それを倒立させて安置したとみられます。

1号墓骨蔵器
倒立していた骨蔵器

1号墓
骨蔵器のなかの焼骨

1号墓
緑釉陶器の椀

 他にも土師器の杯・小皿、須恵器の瓶子、鉄釘が出土しています。骨蔵器、出土土器から9世紀後葉から10世紀前葉頃の墓と思われます。

1号墓遺構図
1号墓遺構図

埋葬過程の復元

 1号墓の周囲で焼土が見つかっていないことから、火葬は別の場所で行われたと考えられます。見つかったガラス玉は火を受けており、人骨と共に焼かれたのでしょう。そして、副葬する土器の体部を打ち欠くなどの儀式が行われました。その後、骨蔵器に骨を拾い集め、その際に破砕された皿や土器の破片を、一握りの砂と一緒に骨蔵器に入れています。人骨は一体分すべてではなく、一部だけが拾い集められました。

 そして骨蔵器に緑釉陶器の椀で蓋をし、倒立させて墓坑に安置し、その横に土器を並べます。骨蔵器を埋める土は、炭、灰、釘が混じっていることから、火葬した場所の灰などと思われます。釘は木棺に使われていた釘と考えられ、木棺に遺体を納めたまま火葬されたことがわかります。

 そこから、ほぼ骨蔵器が埋まった段階で、火葬の際に破砕した土器などを使い、再び儀式のようなものが行われ、最後に若干の盛り土をして、埋葬が完了します。

2号墓

 墓坑平面は直径60cmの円形で、二段に掘り込まれています。深さ約20cm、底近くから富寿神宝が出土しています。副葬されたと思われるような土器や釘、人骨は残っていませんでした。

※富寿神宝(ふじゅしんぽう)…嵯峨天皇の818年(弘仁9年)に、日本で鋳造、発行された銭貨。本朝十二銭・皇朝十二銭のひとつ。

2号墓跡
2号墓

2号墓銅銭
見つかった富寿神宝

2号墓遺構図
2号墓遺構図

3号墓

 隅丸方形状で、中央の深さ27cm、底から釘が出土しています。埋土には炭、灰を多く含んでいます。この層から鉄釘や神功開宝、大型の鉄滓が出土しています。副葬されたのが土器でなく、鉄滓なのは被葬者の生前の生活に関わるものだったからでしょうか。

3号墓遺構図
3号墓遺構図

3号墓
3号墓

4号墓

 表土下約15cmで検出され、不整形で上面は削平を受けています。炭・灰を含んだ黒灰色粘質土層の上面から和同開珎2点が出土しています。

4号墓遺構図
4号墓遺構図

4号墓
4号墓

年代

 1号墓は骨蔵器や出土土器などから9世紀後葉~10世紀前葉頃と推定されます。2~4号墓については、皇朝十二銭中の3種5点が各古墓につき1種類づつ出土しています。銅銭の年代は、和同開珎が708年初鋳、神功開宝が765年初鋳、冨寿神宝が818年初鋳です。銅銭の年代と造墓が近い時期だとすれば、4号墓は8世紀前葉頃、3号墓は8世紀後葉頃、2号墓は9世紀前葉頃と考えらますが、2~4号墓は1号墓を埋葬した際の「儀礼的な土坑」とも考えられます。

太平寺・安堂銅銭
2~4号墓出土 銅銭

被葬者は周辺に居住した氏族の長か、ここより西に存在した家原寺、智識寺の中心的な僧侶の墓の可能性があります。

※このページ内の図は、いずれも『柏原市教育委員会「太平寺・安堂遺跡」1983-IV』より出典しています。

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