~河内大橋9~

2017年7月17日

知識の活躍

 「河内大橋」を改修したのが知識であったことから、架橋したのも知識だったのではないかと考えました。「家原邑知識経」にみえる知識の名は、伯太造畳売、牧田忌寸玉足売、私若子刀自、牟文史広人、物部望麻呂、下村主弟虫売、文牟史玉刀自売、馬首宅主売です。広人、望麻呂以外はすべて女性です。知識として写経を行うのは女性が多かったと考えられます。また、下村主以外は、大県郡を本願地とする氏族ではありません。渋河郡、安宿郡、志紀郡、古市郡など、大県郡周辺を本願地とする氏族です。家原邑には、さまざまな氏族が居住していたと考えられ、これらの人々は、寺院の維持管理など知識として仏教的行為に携わるために家原邑に居住していたのではないでしょうか。

 智識寺はもちろん知識によって建立された寺院ですが、河内六寺と呼ばれる山下寺、大里寺、三宅寺、家原寺、鳥坂寺も、すべて知識によって建立された寺院ではないかと思います。中河内、南河内の仏教を深く信仰する人々が、大県郡に多数の寺院を建立し、ここに仏教都市とでも呼ぶべき景観を創出しようとしていたのではないでしょうか。その中心が智識寺だったのでしょう。智識寺には、天平12年(740)に聖武天皇が礼拝した蘆舎那仏がありました。蘆舎那仏は華厳経に基づき、世界の中心となるべき仏像ですが、平城宮で華厳経の講説が始められるのは、このあとのことです。それよりも早く、華厳経を理解し、蘆舎那仏を造立する人々が、この地に存在したのです。単なる仏教信仰ではなく、仏教の研究においても、最先端の地であったことがわかります。

 大県郡に集う知識が、寺院を建立し、仏像を造るだけでなく、「河内大橋」とよばれる橋を架け、竜田道の新道を切り開いたのではないかと思います。奈良時代の知識としてすぐ思い浮かぶのは行基です。行基は大和・河内周辺で知識を率いて活躍し、東大寺の大仏造営の責任者にもなっていますが、その行基は大県郡に何の足跡も残していません。それは、この地に強固に組織された知識集団がすでに存在したからでしょう。行基はこの地に入る必要がなかったのです。いや入れなかったのかもしれません。この地の知識について、高く評価することが必要だと思われます。

(文責:安村俊史)

河内大橋復元模型
写真:河内大橋復元模型

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