~河内大橋6~

2017年6月25日 (文化財課)

河内大橋はいつ架けられた?

 「家原邑知識経」から、河内大橋は天平11年(739)以前に架けられており、天平11年には、かなり傷んでいたと考えられます。それでは、高橋虫麻呂が河内大橋を見たのはいつだったのでしょう。

 高橋虫麻呂は、藤原宇合の従者でした。その宇合は、神亀3年(726)に知造難波宮事に任命され、難波宮の造営を指揮しました。難波宮跡で後期難波宮と呼ばれる瓦葺きの宮殿の造営責任者ということです。それから天平4年(732)に造営がほぼ完成するまで、虫麻呂もたびたび平城宮と難波宮のあいだを往来したことでしょう。往来の際に詠んだ竜田山周辺の歌も数首みられます。「河内大橋」の歌も、この難波宮往来の際に詠まれたと考えるのが自然だと思います。

 そして、虫麻呂の見た丹塗りの大橋は、完成直後のまぶしいほどの橋だったのではないでしょうか。そのように考えると、河内大橋の架橋は、730年前後の可能性が高いと思われます。難波宮造営に伴って、平城宮と難波宮の往来が激しくなることを見越して河内大橋が架橋されたのではないでしょうか。

 わたしは、かつては河内六寺が造営された7世紀後半ごろに架橋されたのではないかと考えていましたが、高橋虫麻呂の見た「河内大橋」が完成直後のものだったと考えたほうがいいと思うようになりました。そして、それは難波宮造営に伴うものと考えると、架橋の理由が明確になると思います。

 このように730年前後の架橋とすると、架橋から10年ほどのちの天平11年(739)には、改修が必要なほどに傷んでいたことになります。『続日本紀』には、このころ大雨や地震の記録が相次いでいます。「河内大橋」も天災で傷んでいたのでしょう。それとともに、常識を超えた大規模な橋を維持管理することがむずかしかったのもまちがいないでしょう。

 ところで、聖武天皇が智識寺の蘆舎那仏を礼拝し、それが東大寺の大仏造営の契機となったことはよく知られています。その智識寺行幸が天平12年(740)2月のことでした。ちょうどそのころ、万福法師が「河内大橋」の改修を試みていたことになります。天皇に立派な橋を渡ってもらいたいという思いもあったのでしょう。

(文責:安村俊史)

河内大橋復元模型
写真:河内大橋復元模型

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平成29年4月25日(火)から9月10日(日)まで、特集展示「河内大橋」を開催しています。

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